1話 ドラムのキックは心拍音 ⑤ 


 窓から差し込む蜜色の夕陽が、薄暗い廊下をぼんやりと照らしていた。

 遠くから運動部の声がぼんやりと響いている。しん。とした静けさと、黄昏時の暖かさの中、和兎は生徒会室に向かっていた。

 今はほとんど使われなくなっている四階の端に、かすれた文字で、生徒会室と書かれた板を張り付けている扉があった。光が灯っていない部屋がほとんどの中、その部屋だけが、ぼんやりと蛍光灯の光を外に漏らしていた。


「失礼します……」


 そういって、重い扉を引いて開ける。


「来たか」


 生徒用の机を四つと、ホワイトボードでいっぱいいっぱいの部屋には、昼時に出会った八鶴と、もう一人、切れるような目つきをした女子生徒がいた。


三鶴みつる。彼がその熊谷和兎だ。やはり来ただろう?」


 三鶴と呼ばれたその女子生徒は、八鶴の言葉に渋々といった感じで頷いた後、和兎の方を向いた。


「初めまして、熊谷君。私は雀鷹谷三鶴と言います」


「は、初めまして」


 どことなく威圧的で、そして悠然としている。八鶴にも、和兎にも届かない背丈なのに、この部屋の中で一番存在感が強いのは、ほかでもない彼女だった。


「猫背」


「はい?」


 突然の指摘に反応できず、聞き返してしまう。すると三鶴は、さらに語気を強めていった。


「姿勢を正して。曲がりなりにもこれから生徒会のメンバーなんだから、私の目の前ではそんな自信のないような姿勢は認めません」


「あ、えっと……」


 逃げるように八鶴の方に視線を逃がす和兎、その視線の意図を理解したのか、八鶴が口を開こうとした時、


「黙ってて八鶴」


 まだ何も言っていないのに、三鶴がそう八鶴を制した。


「返事をする。いい?」


「は、はい」


「………………」


「はい」


 すると三鶴は満足げにうなずいた後、


「これでよし……。はい、ではこれからよろしくお願いします。熊谷君」


 と、和兎に深々と頭を下げた。

 反射的に、和兎も頭を下げる。


「はい。こちらこそよろしくお願いします」


 直感的に和兎は、さっきの姿勢の話は彼女なりの礼儀や、習慣に近しいものだと理解した。

 三鶴は頭を上げた後、一歩後ろにたたずんでいる八鶴に声をかけた。


「八鶴、あなたも。どうせ、出会って早々用件だけ言って帰ったんでしょ」


「……分かった。熊谷、これからよろしく頼む」


「は、はい。よろしくお願いします」


 今度は握手。三人、互いのあいさつが終わったタイミングで、仕切る様に三鶴が声を出す。


「さて、じゃあ座って。これからどうしていくか、ざっくりと説明するから」


「ん?」


 思わず和兎は不思議そうな声を漏らしてしまう。


「どうした。何か気になることでもあるのか」


「あ、あの、他の人は……」


「いないわ」


 和兎が何か質問を口にする前に、三鶴が答えた。


「まぁ、気にしないで。私が悪いから」


「…………」


 三鶴がそう自虐的に言うと、八鶴が一瞬顔をゆがめた。ほんの一瞬の出来事だったが、雰囲気の変わりようが異常だった。和兎は慌てて話題を変える。


「あ、な、なんか変なこと聞いてすいません。始めましょうか」


「そうね」


 三鶴は切り替えるように深呼吸をした後、元の雰囲気を取り戻し、話を始めた。


「私たちの仕事の大半は、夏の響魂祭と、秋の体育祭についての活動です。できれば六月には響魂祭の仕事を終わらせて、七月にはもう体育祭について話したいと思ってます。全体的な仕事としては…………」


 それから、三人しかいない話し合いはびっくりするほど早く進み、あっさりと集会は終わった。



|||||||||||||||||



「あ、僕は反対側なので」


 校門での分かれ道、和兎は先輩二人に声をかける。


「え? あぁ、そう」


 三鶴は驚いたように眉を上げる。


「わかった。じゃあ、熊谷君。また明日ね」


「はい、また明日」


 そういって、二人は坂道を下っていく。少しだけその影を見送った後、和兎も自分の家に向かって歩を進めた。


 革靴がアスファルトを叩く音だけが聞こえる。

 春の時期の夕方は、驚くほど静かだ。周囲の見慣れた植物達をなんとなく見ながら、和兎は、一人でいるという事実を味わっていた。

 一人でいるというのは、とても楽だ。誰かの隠していた悪意にさらされることもなければ、気遣ったり、無理に明るくふるまう必要もない。

 ……けれど、それは十年も近く同じ友達としか会っていない、それ以上の人間関係を持たない彼らと、本質的には同じだ。むしろ、変動しない毎日に愚痴を言う事すらしない孤独の方が、性質が悪いのかもしれない。

 和兎は頭を振って、ふつふつと湧いて出てきた自己嫌悪に蓋をした。


 坂を下りて、廃商店街に戻ってきた。夕暮れ、暖かな日光と冷たい空気が混在するここは、やはり、どちらかと言えば、神社とか、寺とかの神域に近しい雰囲気を纏っていた。


《和兎の恐怖はそもそも人間の裏に対する恐怖で合って、無力感ではない。いい人、を演じようとはするが、中身がないのも大切》


(不思議な人たちだったな……)


 和兎はあの二人の事をぼんやりと考えていた。

 頭から離れないのは、他のメンバーは居ないのか、と聞いた時の二人の表情。和兎はどうしてもその理由が気になって、様々な可能性を邪推する。


 しかしやがて、考えてきた可能性のどれもが、根拠のない妄想だという事に気付くと、和兎はそのことについて考えるのをやめた。

 いつの間にか、廃商店街を抜けて、舗装がほとんどされていない草道を歩き始めていた。

 もう少し歩けば、龍真のいる自分の家に着く。


||||||||||||||


「ただいま……」


 そう零して玄関の扉を開ける。帰ってきたのは人の声ではなく、キュウ、キュウ、といった、少し不気味な、何かを擦る音だった。


「…………」


 猫背になっている龍真が、ギターの弦を拭いている。木製のギターだ。和兎が隣で立っていても、龍真は気づかずギターを掃除している。

 真剣なまなざしだった。

 和兎は特にそれ以上何も言わず、黙って夕飯の準備を始めた。


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「帰ってんなら言ってくれてもよかったんだぜ?」


「声はかけたんですけどね……。反応がなかったので、そのままに」


 龍真の不満を、和兎は適当に受け流す。

 龍真がいる夕食は、これで二回目だ。二回目のはずなのに、もう、龍真はこの食卓になじんでいる。しかし、


「俺は、ここにずっと居候してていいんですか?」


 ふと、龍真がそう漏らした。

 和兎は思わず固まった。急に、食卓の空気が分離した様に和兎は感じた。


「……どうしたんですか? 急に」


 驚いた和兎はそう返すので精一杯だった。

 龍真は箸をおいて、和兎の方を向いた。目が合う、なんて生易しいモノじゃない。眼球の奥まで届いてしまいそうな視線が、和兎に注がれていた。


「――俺は、やんなきゃなんないことがあって、家出してここに流れ着きました」


 龍真は臆することなく、次の言葉を口にした。


「俺は、ライブをします。ギター一本だけ持ってきたのは、そのためです」


 だから。と、龍真は言葉を繋げた。


「もう少しここまで、住まわせて下さい」

 

 龍真は、頭を下げた。


「あの……。えっと」


 和兎は必死に言葉を探した。

 言葉では形容しがたい、決して良いとは言えない部類の感情が脳内にあふれた。自分が何をどう感じているのか分からないまま、和兎は何とか、言葉を紡ぎだす。


「えっと、その、住むこと自体は、別に何の問題もありません」


 龍真が顔を上げた。ぱっとした、明るい顔だった。

 しかし和兎は、けど、と付け加えて言葉を続けた。


「必ず成功させてください。勝算もなく突っ込んで自分を危険にさらすのだけは、絶対にやめてください」


 どうして。

 どうして、そんな条件を龍真に突き付けたのか、和兎でも意味が分からなかった。ただ1なんとなく、それはきっと綺麗な感情から来たものではないのは、感じれた。

 そんな奇妙な感情を噛み締めている和兎などつゆ知らず、龍真は逆に、突き抜けるような明るい笑顔で言った。


「はい! 俺、絶対成功させます! だから、よろしくお願いします!」


 この日を境に、和兎の短い高校生活に、ひとつ、指針ができた。

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