1話 ドラムのキックは心拍音 ②
0420
うっすらと、視界に柔らかい光が広がった。
自分の体が動き始めたのが分かる。一つ、息を吸って吐くと、畳の匂いと、頬の痛みが同時にやってきた。
「ん……。んぅ……」
やがて、ぼんやりと視界に色が入ってきた。
見慣れた畳の緑と、あと一つ、誰かの顔。
「うわっ! ――あ、あぁ……」
思わず和兎は飛び起きた。しかし、その顔があの少年だとわかると、和兎はすぐに、昨日のことを思い出した。
「今、何時だ……?」
昨晩は倒れこむように眠ってしまった。普段よりも数段明るい家の中に、若干の焦りを感じながら、和兎は時計を見上げる。
――時計は十時を指していた。
「……まず、色々と片づけてから、かな」
もう学校には間に合わない。それに、家には少年もいる。どう考えても今から学校に行くのは現実的ではない。……現実的ではない。
「はぁ……」
ため息交じりに和兎は立ち上がる。
そして、いつもと全く同じように、洗濯物を干すところから始めた。
少しだけ多めに米をざるに入れる。
いつもと同じように米を研ぐ。排水溝に落ちてゆくとぎ汁をぼんやり眺めながら、ただぼんやりと朝食について考える。
冷蔵庫にそんな大層な物は入っていなかった。あるとしても昨日の漬物。だとすると、味噌汁やおかずなんかは作れない。
(おにぎり……かな)
和兎はそう決めると、台所の引き出しから塩を取り出した。
少し多めにおにぎりを作った後、和兎は一つ、おにぎりを手に取ると、少年の枕元に座った。
何となくの不安が、和兎の胸の中にい渦巻いていた。呼吸も、顔色も、特に心配ないはずなのに、不安だった。いや、彼の容態ではなく、彼がなぜそこに居るか。といったそんな理由が心配なのかもしれない。
遅い朝食を終えて、和兎はただ、少年を監視するようにそばにいた。やがて、
「ん、ん……?」
眠たげな、しかし確かに感情の混じった声が聞こえた。
和兎は思わず息を殺す。少年はうっすらと目を開けると、零すように言った。
「ここ、どこだ……?」
彼は半身を持ち上げて、眠たげな視線を家中に巡らせる。そしてふと、
「ん?」
彼の視線が、和兎をとらえた。
和兎はたじろいだ。言い訳するように、弁明するように、和兎はたどたどしく言葉を紡ごうとする。
「あの、えっと……」
しかし、会話の引き出しが圧倒的に少ない和兎は、何もできずにただ視線を泳がすだけ。そんな和兎の様子を切り裂くように、少年は突然、和兎の疑問を投げつける。
「……これ、お前がやったのか」
「――え?」
突然の質問に固まる和兎。相手の少年はそんな和兎を見て、はじめて、表情を動かした。ばつの悪そうに頭を掻いて、言葉をつづける。
「あーっと。……だから、俺の服とか、まぁ、傷? とかっす」
「えっと。そ、そうです。……気分を害したら、すいません」
顔をふせて、和兎はそう謝る。すると少年は慌てた様子で言った。
「いや、大丈夫ですよ! 全然大丈夫です」
やがて、少年は周囲を見渡したあと、改めて和兎に向き直ると、
「俺は
そう名乗り、突然、頭を下げた。
和兎は焦った。
「あ、いやっ! べ、別に大丈夫ですから! 頭を上げてください!」
龍真は顔を上げた後、和兎は時間を早送りするように、早口で名乗った。
「ぼ、僕は熊谷和兎です……。え、えっと、調子は、どうですか?」
和兎の問いに、龍真は余裕そうに言った。……言おうとした。
「全然問題な――」
ぐぎゅう……。
・・・・・・。
「え、えっと。お、おにぎり食べますか?」
顔を真っ赤にした龍真に、和兎は作ったおにぎりを差し出す。
「い、いただきます……」
蚊の鳴く様な声で龍真はそういって、おにぎりを一つ、口に入れた。
「……!」
相当、腹が減っていたのだろう。龍真はすぐに腹の音のことを忘れて、おにぎりにかぶりついた。
目を輝かせて食べる龍真を見て、和兎は何だか変な溜息を、ついてしまった。
|||||||||
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
コップに冷えた麦茶を入れて、龍真の前に置く。
龍真はそれを一口飲んだ後、もう一度家中を見渡して、突然、和兎に問いかけた。
「ここって……どこなんですか?」
「えっ……! あ、えっと、ここは
突然の質問に、戸惑いながら和兎は答えた。二人の間に、一泊の沈黙が流れる。
龍真が口を開く気配がないことを察知した和兎は、遠慮気味に龍真に問う。
「すいません。僕からも一つ、聞いていいですか?」
「あ、はい! 全然構いません」
「あの……龍真さんは何処からここへ?」
すると龍真は、何かを隠すように視線を巡らせた。
龍真のその動揺の意味が分からず、和兎はずっと黙っていた。やがて、龍真は観念した様に、零すように言った。
「――東京っす」
「東京から……?」
和兎は思わず聞き返した。
「はい。一応、財布とかは……」
龍真は手元に視線をやった。
しかし、直ぐに何かに気付くと、龍真は半分腰を浮かせるような形で周囲を見渡し始めた。
「ど、どうしました?」
和兎がそう聞くと、龍真は、
「えっと、その……」
と、言葉を取りこぼしながら、細々と言葉を紡いだ。
「ぎ、ギターがないん、です、けど……」
「……?」
ギター? 一瞬、和兎はその単語に戸惑った。
「荷物が、ないんですか?」
和兎はもう一度、今度は言葉をぼかして、龍真に聞いた。
龍真は頷いた。今度は顔が真っ青だった。
「そうです……! 濡れないようにって、屋根のある所に置いてきたのは覚えいるんですけど……」
取り乱す龍真を見て、和兎は思わず言った。
「……靴はもう乾いています」
「え?」
龍真は目を丸くさせて、和兎の方を見た。
和兎はまくしたてるように言葉をつづける。
「靴はもう乾いています。靴下も貸します。だから、直ぐにでも探しに行きましょう」
「いいんですか!?」
龍真は食い気味に和兎に問いかける。
「少し歩くことになるんですけど、いいですか?」
「行きましょう! すぐ行きましょう、今行きましょう!」
「あ、ちょっと、その服は冬物なので……!}
飛び出す龍真は追いかける形で、和兎も家を出た。
空のコップとそのままの布団だけが、家に取り残された。
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