2話 唸るベースは滅私と愛 ⑧
0506
月曜日、和兎はいつもと同じ時間に起きて、いつも通りに朝の支度をする。零れ出るあくびを噛み殺しながら、歯を磨いて、顔を洗って、服を着替えて、洗濯物を干しに外に出る。
「ふぁあああ」
朝食の支度をしていると、いつもよりも間の抜けた眠たげなあくびが布団の方から響く。
「おはようございます。龍真さん」
「あぁ。おはよ」
そしてもう一度大きなあくびをしながら、ふらふらと洗面所に消えてゆく龍真。
昨日は若干遅くまで、作戦会議……というか、ただのいたずらの様な悪だくみをしていた。本当にそれは簡単で、単純で、何より稚拙な物だったのだが……。
(まさか、こんな所でまた文章を書くとは思いませんでした……。まぁ、使用用途はまさしく悪戯のあれですが)
昨日作った味噌汁を温めながら苦笑する。
解決策が浮かんだからだろうか。今日の朝は、なんだか少しだけ、すっきりした感じだ。
||||||||||||
「じゃあ、行ってきます」
「おう、頼んだぜ……。トチるとしたら最初のあのフェーズだ。マジで気ぃ付けてくれ」
「……まぁ、そうなりますね。気を付けます」
短くそう会話を交わした後、和兎はいつも通りに学校へと向かった。
|||||||||||||||
|||||||||||||||
和兎は学校へ着くとすぐに、自分の下駄箱ではなく、三年生の下駄箱へと向かった。和兎はいわば早朝登校勢であり、他の生徒はともかく、酷いときには朝練する運動部連中よりも先に学校についてしまう。
特にそうなった理由はないが、しいてあげるとするなら、学校に図書室があるから……だろうか。
ともあれ、ほかに誰もいない事はこの場合においては良い事だ。幸い、校門周辺には誰もいなかったし、三年生の下駄箱にも人の姿は見えない。
三年生は珍しく、クラスが三つもある。探すのに若干苦労したが、雀鷹谷八鶴の名前を発見すると、和兎はその下駄箱に一つの手紙を、人よりも大きい上履きの上に置いた。
……男が男に送るとしたら、いたずら以外には考えにくい手紙だ。いや、本気でもいいとは思うが、少なくとも日本ではそうそう見ない、はず、だ。
(僕はあと、三鶴先輩を龍真さんが指定した神社に連れていくだけですね)
和兎は慎重に手順を確認した後、そそくさとその場から離れた。
||||||||||||
授業中、というか一日中、和兎は例の作戦について考えていた。幸いなのは、そんな敏感になっている時期に、話しかけてくる友人がいなかったことだ。
(大丈夫なんでしょうか……。そもそも、三鶴先輩をどう説得すればいいのでしょう。それだと八鶴先輩も付いてきて――あぁ、それは別にいいのか。それにラブレターって言っても、八鶴先輩が来ない可能性もありますし、それにそれに、龍真さんが失敗する可能性も……。加えて、僕たちが先輩たちを出合わせたところで、そこで話は終わるんでしょうか? いや、考えても仕方がない……。そもそも、そもそも……)
思考の渦に飲み込まれてゆく。口元に手を当てて、ゆっくり、ゆっくり深呼吸をしようとも、冷水を浴びせられたかのように冷え、焦っている脳と、苦しいくらいに強く打つ心臓は止まらない。
和兎は永遠ともいえるであろう脳内世界の波に、一日中呑まれていた。
……あっという間に、その日の授業は終了した。
|||||||||
放課後、というか、帰りのホームルームが終わったタイミングで、和兎は急いで三年の教室に向かった。人生の中で最大の緊張を和兎は今味わっていた。
ゆっくりと、だが確実に三年生の教室へと歩を進める。
「…………」
ついてしまった。あぁ、ついてしまった。
(だだだだ大丈夫。ダイジョブだ。三鶴先輩と八鶴先輩は基本的に一緒に帰る。帰るけど、ここまでの事態に発展していて、二人で行動している確率は、低い……いや、だめだ。もし家族の間柄の事で二人の結束が高まっていたら!? そんなんじゃ八鶴先輩への手紙の意味が――いや、いやいやいや。だだ大丈夫だ。別に二人同時に連れてったって問題ないはずだ。多分、多分。
「すまない。今はそれどころではないんだ。三鶴もそうだろう?」
あっ。だめだ。あり得る。本当にあり得る。いやダメだ和兎。
「恐れ、負けると思ったその瞬間に負けは確定する」
といった人もいるんだ。大丈夫だ。恐れちゃだめだ。いや、それでも……)
「熊谷くん!」
「はいっ!」
ふと、聞き慣れた声の一喝で、和兎は思考から飛び出した。
顔を上げると、三鶴が顔をのぞかせていた。
「大丈夫? そんなところに立ってぼーっとしてたら、邪魔になるでしょ?」
「あ、す、すみません……」
三鶴の様子は、普段と変わらないように見えた。
昨日のことなどなかったかのように、平然とふるまっていた。
いっその事、僕たちが何もせずに解決してしまったらいいのに。怠惰というか、こう、逃げる様な、そんな弱音が心から漏れる。
「や、八鶴先輩は?」
だが、何もしない、というわけにもいかない。和兎は震えた声で三鶴に尋ねた。
「……いや、居ない。行かないといけない所ができたんだって」
和兎は心の中で小さく安堵のため息をつく。
ひとまず、間違いじゃなければ、八鶴はあの手紙につられてくれた。というわけだ。
「そ、そう、ですか……」
言葉が生徒たちの音に溶けてゆく。
和兎は一つ、小さく深呼吸をした後、意を決して三鶴に言った。
「あ、あの、三鶴先輩。……こ、この後、じ、時間ありますか?」
三鶴は驚いたように小さく目を見開いた後、意を決した様に口を一文字に結んで、頷いた。
「………うん、あるよ」
「そ、それじゃあ、ついてきてもらっていいですか?」
こうして和兎は、三鶴を連れ出すことに成功した。
||||||||||||||||
二人の間に会話がなかった。
ただ、前に和兎、それを後からついてゆく三鶴。
和兎にとって、あの神社は初めて行く場所だった。龍真が真剣に、そして丁寧に教えた甲斐あってか、和兎は迷わず、例の神社に続く階段についた。
「あ、この階段――」
ふと、三鶴が驚いたように言葉をこぼした。
「? どうしました、三鶴先輩」
和兎は思わずその言葉に反応した。
しかし、三鶴は焦ったように首を横に振って、
「あぁ! いや、なんでもない」
と、話をごまかした。
そうして、二人の会話はまた、無くなった。
||||||||||||
長い、長い階段をただただ上る。
大きな雲がぼんやりと浮かんでいる橙色に染まった空に、蜜色の光が木々を照らしている。
ふと、上を見上げると、大きく、だが色が剥げ、ぼろぼろに弱った鳥居が見えた。
「……三鶴先輩」
この行為は、果たして、本当に先輩たちの為になっているのだろうか。和兎はその疑問をまだ、拭いきれずにいた。
もしかしたらこの行為が、自分たちのうっすらと出来た繋がりを断ち切ってしまうかもしれない。もしかしたらこの行為が、誰か一人を深く傷つけてしまうだけかもしれない。
対人関係において、双方傷つかない確かな方法は、沈黙である。
和兎はそれを、肌で確かに経験している。
誰とも関係を作らず、誰とも会話をせず、ただ、黙っている。そうすれば、自分が傷つけられることも、他人を傷つけることもない。何も起こさなければ、何も起きない。
誰かを傷つける事、自分が傷つくことが確かに回避できるのならば、孤独なんて甘んじて受け入れられるし、友情や恋愛なんて、喜んで差し出してしまう事ができる。
だから、この方法は、あまりにも残酷だ。
けれど、和兎は言わなければならない。
「僕は、おせっかいでしょうか」
立て続けに、和兎は問う。
「僕は恨まれるべきでしょうか」
「……何の話をしているの?」
ふと、三鶴に問われる。しかし、和兎はあえてそれを無視した。全て、すべて無視した。
「僕はこの選択が間違っていると、確信を持って言えます。もし僕が三鶴先輩のたちばだったら、僕は僕のことを間違いなく恨みます」
「けれど」和兎はつづける。
気付けば、鳥居の足元、すぐそばまで来ていた。そこには、龍真、つばめ、そして……八鶴。
「この問題は、きっと、黙って、目を閉じて、避けていても、腐ってはくれないでしょうし、消えてはくれないのでしょう」
和兎は三鶴の方を振り返る。
三鶴の表情は、逆光で見えない。
「これが僕の選択です。三鶴先輩」
こうして、つばめ、三鶴、八鶴が、神社へと集まった。
||||||||||||||||
「つーわけです、つばめ、八鶴さん」
龍真は肩をすくめて笑った後、八鶴とつばめ、二人に語りかけた。
「俺はここで失礼します。あとは三人で、思うままに話してください」
そして、龍真は、和兎に視線を送る。
「そいじゃ、帰るぞ、和兎」
和兎は黙ってうなずいた後、龍真に連れられるように、神社の裏道の方へと足を運んだ。
――それから、この神社でどんな話が行われたか、和兎も、龍真も知らない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます