5話 交わる音色はキーボード ③

 初めて弾いたピアノの曲は、今はもう覚えていない。

 ただ鮮烈に覚えているのは、嬉しそうなあの人達の顔だけ。思えば、自分はとても恵まれていた。

 厳しいが、誤魔化さず、臆さず、そして真剣に自分のことを見てくれる保護者代わりのあの人と、優しく、朗らかで、いっつもピアノを楽しそうに弾いてたアイツがのおかげで、子供の時はそれなりにうまくやって行けたと思う。


 自分に、才能があるかもしれない。という予感が芽生えるまでは。

 


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 ビジネスホテルの安部屋のベットの硬さには、もう慣れた。

 はじめもはじめ、初日の夜は、あの人と喧嘩したこともあってか寝心地は最悪だった。けどまぁ、人間というのは慣れるもんだ。今ではあのベットの硬さにも慣れてきた。

 掛け布団や枕を整えて、歯を磨き、顔を洗って服を着替える。カーテンを開けて、空の様子をうかがうと、最近の梅雨模様にしては珍しい、晴れ間が広がっていた。

 ここに来るまでも、ここに来ても変わらない習慣。

 ――いつまで、こんな生活が持つのだろう。

 ふと、急に鎌首をもたげた、せっかくの爽やかな朝に似つかわしくない、まとわりつくような疑念をなんとか振り払って、誤魔化すように、貴虎は外に飛び出た。



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 遅いな……。

 一冊、本を読み終えてふと顔を上げると、もう、いつものロビーについてから、一時間がたっていた。普段ならば必ず、ロビーにいて和兎を待っている貴虎が、今日はいない。

 何か厄介ごとに巻き込まれたのかと不安に思うが、彼と連絡を取れる手段を全く持っていない和兎は、受け身に不安を募らせることしかできずにいた。

 そうやって、そわそわといつ来るか、いつ来るかと周囲に神経を張り巡らせていると、


「あの、すみません」


「あ、はいっ」


 突然、背後から声をかけられた。

 ぱっと振り向くと、ホテルのカウンターにいる女性のホテルマンに、声をかけられた。


「あの、館山貴虎さんのご友人の方ですよね」


 下から覗き込むように疑問を投げつけられる。

 和兎は、「あ、あぁ、はい」とコクコク頷きながら答えた。


「すみません。館山さまのご親族の方からお電話を頂きまして……。ご友人の方には、大変申し訳ないのですが……」


 どうして自分に、貴虎の親族が、なぜ、そんな突然に、と疑問は尽きなかったが、ホテルマンの厄介ごとに巻き込まれたような嫌そうな表情と、言外の威圧に耐えれず、和兎は、


「あぁ、はい。受け取ります。はい」


 と、二つ返事で携帯を受け取ってしまった。

 通話中。と、鰐淵がくぶち涼子りょうこという文字を見て、和兎はそのまま、その携帯電話に耳を当てた。


「もしもし? まずは名乗ってもらってもいい?」


 いつもどこか抜けたような、不真面目な感じの貴虎の親族とは思えない厳格な声が、くぐもった感じで鼓膜を揺らした。


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「最悪……。最悪だ……」


「せっかくの晴れ間なのにそんなどんよりとした雰囲気だすのやめてもらっていいか?」


 今日、練習と監督の必要がない鷹雄と貴虎は、いつものサッカー場が見下ろせる階段に座っていた。

 頭を抱えて蹲る貴虎に、鷹雄は冷たく突き放すようにそう言った。


「いや、天気とか関係ねぇって。スマホなりなんなりを置いてきて数時間よくわからない場所をウロウロさせられた俺の気分になってみろよ。クソ暑いし」


「ホテルに引きこもってるからだろ。周辺の道くらいいい加減覚えろ、バカ」


 舌打ちをして、鷹雄に何か言ってやろうとして、やめる。口喧嘩をする元気がもうなかったからだ。今もずっと背中にのしかかる最低な気分を、ため息とともに漏らした。


「……お前は、いつ帰るんだ」


 ふと、そんな辛気臭い雰囲気を抜け出したような、抜け出せていないような、そんな質問を、貴虎は投げかけられた。


「あ? どーゆーことだよ」


 回らない頭では、わかりづらい鷹雄の言葉が、さらにわからなくなる。諦めて、貴虎は大人しく、その言葉の真意を訪ねた。


「そのままの意味だ。お前の生活が、普通の高校生がしていい生活じゃないくらい、小学生でもわかる」


「あー……。話したくねぇ。つか、それを言うなら居候してる龍真とかもそうだろ」


「なんだ? 今日はやけに及び腰だし、素直だな」


「うっせ……」


 わかりやすい鷹雄の軽口にも、乗れない。

 そんなこと、今朝も、道に迷っていた昼の間も、さんざん考えてんだ。バカ。というセリフすら吐けない。何とかしなければ。そういった強迫観念は、貴虎の脳と感情を、確実に蝕んでいた。


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「えっと、ぼ、僕は熊谷くまがや和兎かずとといいます」


 電話の奥の声の主、涼子に和兎がそう素直に白状すると、彼女は小さく舌打ちをした。


「熊谷……。そういうことね」


「え、えと……」


 唐突な展開と、名に恥じないトゲトゲしい雰囲気に和兎は言葉を返すことすらできないでいる。そう戸惑っていると、涼子は淡々と、詰めるように言葉を続ける。


「いえ。こっちの話。ねぇ、熊谷君。貴虎を知っているってことだけど、どこまでアイツは君に話したの?」


「え、いえ、ちょ、ちょっとまってください」


 和兎は必死になって彼女の言葉に歯止めをかける。彼女は、「なに」と短く明らかに低い声で和兎の言葉を続きを求めた。


「ど、どうして顔も知らない僕にそんな話を振るんですか? 鰐淵さんにしても、突然、館山くんの知り合いです。と名乗る人なんて、ふ、不審以外の……」


「それを証明するために質問したんでしょ」


 ばさり。和兎の言葉はあっさりと突き破られた。強烈な一言に和兎が押し黙っていると、涼子は「で、どうなの?」と、和兎に問う。

 何も悪いことをしていないはずなのに、和兎は余計なことまで口走ってしまいそうになる。電話越しの声一つで、和兎は完全に取り押さえられてしまった。


「そ、その……。ぼ、僕は、なにも……、何も知りません」


 逃げるように、ふさぐように、和兎は言葉を積み上げる。


「彼が僕に話してくれたのは、精神的な疾患で苦しんでいる知り合いを助けたいから、ここに来たという目的だけです。ずっとホテルにいれる理由や、どうしてここに居続けるか、学校はどうなったのかや、音楽に詳し――」


「待って」


 また、言葉を遮られる。今度は何を言われるのか。和兎は思わず身構えた。しかし、次に出てきた言葉は、意外そうな、それで、少し嬉しそうな、そんな声だった。


「アイツ、また音楽を?」


 また、という言葉に引っ掛かりを覚えたが、和兎にそれを指摘する勇気はもうなかった。弁明するように、すらすらと言葉を重ねる。


「はい。……ぼ、僕たちの文化祭に、協力してくれることになりまして……。そ、それで……」


「…………」


 帰ってきたのは、沈黙。

 あ、しまった。和兎もつられて黙る。しばらくの間、無言の時間が続いたが、涼子が一つ、区切るように息を吐いた。


「苗字」


「え?」


 和兎は素っ頓狂な声を出して聞き返した。あきれたようなため息とともに、涼子はつづけて説明した。


「私、まだ一回も貴虎の苗字言ってないんだけど、あなたは知ってた」


 幾分か、とげとげしさが抜けた声で、涼子はつづける。


「それに、熊谷平助が住んでいた町は、栃木県の田舎町と聞いてるわ。アイツがぺらぺらと名前を名乗るわけないし、まぁ、あなたとアイツは、そこそこの顔見知りってことかしらね」


「え、あ、ありがとう、ございます……?」


 認められた、のか? 和兎は疑問の抜けないままの声で、間抜けな感謝を伝えた。

 切り替えるように「うん」と小さく言葉を漏らした後、涼子は電話越しにも通る堂々とした声で、和兎に告げた。


「じゃあ、もう一度、自己紹介をするわ」



「私は、鰐淵涼子。職業は警官。館山貴虎の保護者です」

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