5話 交わる音色はキーボード ④
アイツはよく、俺のピアノの演奏を聴くたびに、幸せそうに、朗らかによく笑った。そしてアイツは、ことあるごとに言うんだ。
「貴虎くんがピアノをたくさん弾けば、たくさんの人がこんなに幸せになるんだね」
きっとそれは、涼子さんの言っていた、
「能力を持つ人間には、それ相応の責任が伴う」
って話と通じる部分があったんだと思う。なんで鍵盤に向かうかなんて、昔はそれほど考えてなかった。ただ、ピアノを弾いて、顔を上げたときにアイツのくしゃっとした笑顔があるのは、すごく、ありがたいことだったんだなと、今になってようやくわかった。
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それから、涼子は和兎に、貴虎がここに来るまでの経緯を語った。
長い話というわけではないはずだが、短いと、そう言い切れいる話でもなかった。涼子は和兎に短く、「貴虎を、お願い」そう言って、電話を切った。
和兎は小さく、長いため息をついて、結局合流することのできなかったホテルのロビーを、後にした。
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体が思い通りに動かない。
そういう表現を、本でよく耳にする。けれど、和兎自身、そんなに体を激しく動かすような環境に身を置いていなかったため、身をもってその言葉の意味を経験する機会が、今まではなかったのだ。
そう、今までは。
「う、動かない……」
和兎は小さくうめいた。
足が、全く動かない。今まで当然のように動いていた足が、凝り固まって、かつ何かに縛り上げられたかのように動かない。
ドラムを始めるにあたって、貴虎からやれと言われた、右手右足、右手左手の繰り返し。その、右足、つまりバスドラムに当たる部分が、うんともすんとも言わないのだ。
右手左手、スネアとハイハットの部分はまだできる。腕を同時に振り上げて、おろす。難しいことは、今はそんなに考えなくていいと貴虎にいわれたとおりに、ただ純粋に、あげて、振り下ろしている。
しかし、次の右手右足、スネアとバスの組み合わせになった途端、ぴたっと、全身が止まってしまうのだ。頭でわかっていても、体が動かない。足と、手を、ただ使うだけなのに、不思議で仕方なかった。
そんな初心者らしい悩みと行き詰り方をしながら、和兎は貴虎の様子も確認していた。
あの話を聞いてから、貴虎を見る目が、少し変わった。
行動に疑問を持っては、納得するの繰り返し。ピアノの鍵盤を見て、小さく、聞こえないようにため息をつく。ほかの三人は全く気付かない彼の過去の断片に、和兎だけが、目ざとく気づく。
和兎は、何も言わない、何もしない、何もできない。
決めかねている。彼にどんな言葉を贈ったとしても、逆効果で、無意味で、無価値なものになってしまうかもしれないからだ。
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貴虎はもともと、確信が持てなくともさして気にしない性質だった。
一人で数学の問題を解いている時、回答を丸写しすることはあっても、いちいち途中式を見返してそれがあっているかなんて気にしたことはないし、ピアノに触れているときも、自分の演奏が譜面通りかなんて、考えたこともなかった。
だから、いま、貴虎は行き詰っている。
一方的に切られた涼子との会話。その時言われた、「それがわかるまで帰ってこなくていい」という一言。
貴虎は行き詰る。
一体、自分は何をわかっていないのか、それは一体、いつわかるのか。そもそも、それ、とは一体何なのか。
四人とも、着実に上達している。
いつの間にか加入させられたバンドの中で、音楽のまとめ役のような立ち位置になって、数週間がたった。
梅雨が明ける気配は、まだない。
どんな曲をやるかまだ決まっていない以上、はっきりとは言えないが、そこそこの難易度の曲だったら形にはなる程度には、技術は実ったと思う。
四人は良い。問題は自分だ。
貴虎は、自分の目の前にあるキーボードに視線を落とす。
見慣れた、白と黒の配置。指をあの位置に落とせば、あの音がなる。決まった音を組み合わせ、繰り返せば、あの曲が再現できる。静かな確信が脳を満たしていたが、貴虎はそれを実行には移さなかった。
どうしても、手が止まってしまう。
自分が持ち込んだ外の冷たい空気を、貴虎はゆっくり吸いこんだ。
「無理だ」
鍵盤に触れられない理由は、記憶を掘り起こすまでもなく、あの事が原因だとわかる。そして、別にあの事と、今の自分が弾かないことは、なにがしかの特別な関係があるわけでもない。
けれど、弾けない。
「…………」
重苦しいため息が、狭い防音室を満たした。
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《貴虎と和兎が接触するきっかけ。貴虎が、和兎が何かを知っているかもしれないと疑いを持つきっかけ》
《単純に龍真か鷹雄が貴虎に対して詰める感じでいいと思うんだよね》
「あれ、今日って鷹雄先輩の日、でしたっけ」
貴虎との練習に楽器屋に入ると、いつもは店主が使っているカウンターに自分のギターを置いて、何かに四苦八苦している鷹雄が目に入った。
和兎にそう問われ、鷹雄は顔を上げた。
「いや、俺はたまたま、弦を張り替えるためにここに来た」
「張り替えに……、って、切れたんですか!?」
あの頑丈そうな弦が切れる、そばにいる龍真がよくそうぼやいていたのは覚えているが、実際にそんなことが起きるとは想像がつかず、和兎は驚いてそう聞き返してしまう。
「案外よくあることだぞ。それに、いちばん細い一弦だとさらにな」
防音室の方からやってきた貴虎が、そういって会話に割り込んできた。
「あぁ、その通り一弦が切れた。まだ扱いきれない……。それより貴虎」
鷹雄はそう返した後、貴虎に向き直って、疑問を投げかけた。
「俺たちの練習を見てくれるのはありがたいが、お前はお前で大丈夫なのか?」
その鷹雄の素朴で当然の疑問が投げられかけられた瞬間、和兎は、腹の底が縮んだような気がした。
貴虎は避けているのだ。可能な限り、できる立ち回りをすべてして。良いか、悪いかではなく、今、こんなタイミングで貴虎を追い詰めるようなことは、したくなかった。
貴虎が誤魔化すようにわざとらしくため息をつき、口を開こうとしたのを待たず、和兎は思いっきりその会話に割り込んだ。
「き、昨日練習してるのを見ましたよ!」
思った以上の声量が出た。
鷹雄はしばらく訝しむように、和兎と貴虎を見比べていたが、やがて一回、自分を納得させるように頷いて、
「……まぁ、和兎がそう言うなら、俺からは良い」
と、その会話を切り上げて、ギターに視線を落とした。
何とかなった。そう思ったのもつかの間、
「余計な事すんなよ」
小さな貴虎のつぶやきに、和兎の背筋は凍った。
彼は、もしかして、自分が涼子さんに接触していたことを、知っているのかもしれない。
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