5話 交わる音色はキーボード ⑤

 それから、和兎が貴虎に、それほど時間が経たない内に呼び出されたのは当然のことだったのかもしれない。

 いつものようにホテルのロビーで落ち合ったと思ったら、「少し、外に出よう」と貴虎は和兎に短く言った。和兎はそれに、黙って従った。


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 なぜ、俺は和兎を外に呼び出したのだろう。


 貴虎は一つ、単純な疑問に心を支配されていた。

 別に、いつものロビーでもよかったはずだ。それに、自分のことを気にしている人間など、いるはずがない。それなのに、わざわざ人気の少ない外に和兎を呼び出したのは、何故だろう。

 外の建物や植物たちは、今にも沈まんとしている夕陽に、橙色に染められている。

 貴虎は、和兎を連れて、ただ歩く。

 歩いて、歩いて、歩いた先は、あの、鷹雄と出会った公園へと続く、見晴らしの良い一本道。

 あのおかしいくらい大きい公園も、ここからでは小さく見える。貴虎は、ふと、足を止めて、振り向いた。

 和兎の叱られる前の子供のような不安げな顔も、夕陽によって染まっていた。

 貴虎は一つ、息を吸うと、努めて冷静な声で、和兎に問いかけた。


「涼子さんから、どこまで聞いたんだよ」


 思った以上に鋭く、威圧するような声が、出てしまった。



 呼吸が止まった。

 薄々感づいていたはずなのに、心の準備をしてきたはずなのに、なぜここまで自分は驚いて、怖がっているのだろう。和兎は冷静な自分と焦って動けない自分の両方がいる、この奇妙な状態を経験した。


「…………そ、それは」


 かろうじて出せたのは、説明する気のない、誤魔化すような言葉。


「それは?」


 もちろん、貴虎は誤魔化すなどといった甘いことは許してくれない。鋭い追撃が来る。


「……………」


 次の言葉なんて考えていない。

 案の定、言葉に詰まる。そんな和兎を見かねてか、貴虎は説明するように話し始める。


「どうして、って思ってんだろうな。まぁ……、お前が都会っ子だったらそうやって問いかけることすらしなかったんだけどなぁ」


 ため息を一つ吐いて、貴虎はつづけた。


「着信履歴、残ってたんだよ。まぁ、当たり前だけど、お前は知らなかったんだろうな」


 バカにするような冷笑を張り付けて、貴虎は和兎に詰めよる。


「がっつり話し込んでたんだ。知ってんだろ? 俺のこと。そんで、彩葉のこと」


 和兎は、ただただ黙って頷いた。



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 世界は音で満ちている。

 人々のの革靴がアスファルトを蹴る音、車や電車のエンジンやモーターがうなる音、チャイム、ため息、激しく吹く風、風に揺られてざわめく葉。そして、作られた音楽。

 最初は、ただ何となくあの音とその音が似ているな。といったぼんやりとした印象に過ぎなかった。

 しかし、俺にとってはおぼろげな感覚であっても、他の人にとってそれは、百発百中、最高精度のものだったらしい。涼子さんからあとで、絶対音感と教えてもらったそれは、俺にとって初めての責任ちからだった。


 涼子さんは、俺の母さんの妹だ。

 母さんは、俺がまだ三歳になるかならないかの時に、自殺したらしい。正直なところ、俺にとって一番古い記憶にはすでに母は死んでいたから、悲しくとも何ともなかった。

 ただ、そういう人がいたんだ。という乾いた感想しか持てなかった。けれど、涼子さんにとっては違った。

 母さんは生前、俺にピアノを教えたがっていたらしい。母さんとの最期の会話も、ピアノについての他愛のない話だったという。だから、涼子さんは俺にピアノを与えた。

 俺に絶対音感があるとわかった時の、涼子さんの顔は少し誇らしげで、そして少し曇っていたのを覚えている。

 どうやら、俺の母も、絶対音感だったらしい。きっとそれに重ねたのだろう。


 鰐淵彩葉。

 涼子さんの一人娘で、年齢は俺の二個下。

 顔はまぁ……、かわいい部類に入るとは思う。最初にも言った通り、俺には引き取られたという感覚がないから、従妹というよりかは妹という感覚に近かった。

 彼女が「ピアノを弾きたい!」と、涼子さんに駄々をこねたとき、涼子さんは困ったような、嬉しそうな、そんな顔をした。

 結局、彼女もピアノを弾き始めた。涼子さんが教えて、俺と、彩葉が弾く。言葉にしたら単調なものかもしれないけれど、確かに幸せな日々だった。


 俺が中三になってしばらくがたったある日、彩葉が足に傷をつけて帰ってきた。

 俺も、涼子さんも、体育で転んで怪我をした。という彩葉の言い分を、一分たりとも疑わなかった。

 それからというもの、彼女はちょくちょくの頻度で怪我をして帰ってくるようになった。

 けれど、俺も涼子さんも、彩葉をまともに見ようとしなかった。

 その時の俺が、同世代じゃ敵なしのピアノ弾きだったからだ。

 俺は、彩葉のことを気にせず、ピアノを弾き続けた。その時は、彩葉のことも、もしかしたら涼子さんのことすら眼中になかったのかもしれない。ピアノを弾いて家族を幸せにする喜びではなく、他者よりも優位であるという喜びに、浸っていたからだ。


 彩葉が骨折をしたと電話がかかってきた時も、俺は彩葉の所に行かず、コンクールの会場に居続けた。

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