5話 交わる音色はキーボード ⑥

 彩葉は骨折をしたその次の日も、学校に行こうとした。

 俺も涼子さんも、それを止めなかった。止めようともしなかった。


 そして、彩葉が学校の三階から飛び降りて、意識不明の重体になった時、ようやく初めて、俺と涼子さんは、久しぶりに、彼女の顔を見ようとした。

 その時には、もうすでに、何もかもが遅かった。



||||||||||||||||||



「彩葉は、重度の鬱で怪我が治っても部屋に出られなくなってた。いじめ、だったらしい」


 淡々と貴虎は、和兎が涼子に知らされていなかったことを、明かしていった。

 その語り草には、自虐も、自責の念も、後悔も、あらゆる感情が失われている。決して、自分を被害者にしない。貴虎の自戒が、彼の感情を強く、押さえつけていた。


「加害者は、ピアノのコンクールに出ては、なんども俺に負けていた。そして、俺に負けるたびに、腹いせのように、彩葉に嫌がらせや暴力をふるったらしい」


 区切るようにため息を吐いた後、貴虎はこぼすように、言葉を漏らした。


「俺が、アイツを追い詰めたも同然だ。俺がピアノを弾かなければ、アイツが苛立ちのはけ口にされることは、なかった……」


 そう、貴虎が言い切った後、二人の間に重苦しい沈黙が、まとわりつくように降りてきた。



「だから、ピアノを弾かない、んですか?」


 沈黙を切り裂いたのは和兎だった。

 和兎がこぼした小さな疑問に、貴虎は情けなく笑った後、答えた。


「あぁ……。そうだな。弾かない、っつーかは、弾けない。って言った方が正しいかも知んねーけど」


「なら……。貴虎さんは…………、しました、か?」


「ん?」


 出過ぎた真似だ。

 和兎はそう、自虐した。自分が何かできるわけでもないのに、何かしないと違う気がするなんて、そんなの、自己陶酔したごっこ遊びに過ぎない。

 けれど、和兎は止まらなかった。深く関係が傷つくことになっても、和兎は、それを問いたださずにはいられなかった。


「貴虎さんは、その……。彩葉さんと、話し合いましたか?」


「話し、合った?」


 貴虎が訝し気に和兎に聞き返す。

 和兎は黙って二、三回頷くと、唇を湿らせた後、意を決して、絞り出すように、言った。


「彩葉さんが、ピアノについてどう思っているか……。彩葉さんが、貴虎さんのことを、どう思っているか……。本当は、どうして欲しいのか……。聞きましたか?」


 瞬間、貴虎ははじかれたように顔を上げたと思うと、激しい怒りをたたえた瞳で、和兎をにらんだ。


「聞くって、なんだよ。今、俺がアイツと顔を合わせた所で、ひどく拒絶されて終わりさ。話し合うっても、どうやって? 追い詰められているときに、手を差し伸べようとも、そもそも、見ようともしなかった俺に、何かを話そうと本気でアイツが思っているとでも言いたいのか?」


 一瞬、腹の底がこわばった。

 今まで知らなかった貴虎の怒りに触れたからだ。和兎は、震え、消え入りそうな声で言い返す。


「そ、それは、わかりません。け、けど、貴虎さんは、彩葉さんと話したんですか……? 彩葉さんにはっきり拒絶されましたか? 彩葉さんがふさぎ込んだ後、彼女を理解しようとしたんですか……?」


 貴虎は押し黙る。和兎は、早口でまくし立てるようにつづけた。


「本当は、自分に全部の責任があるって、そう思って顔を合せなかったんじゃないんですか? 

 自分の力で彩葉さんを治す手立てを探しに、ここまで来たんじゃないんですか? 

 自分のせいだから、責任だから、まるで自分を罰するかのように、彼女に会う資格なんてないって、思い込んでるんじゃないんですか……?」


 緊張で跳ね上がる心臓の爆音が、喉元まで迫っていた。

 自分がいま、どこにいて、どんな声量で話しているか。もはや、自分が何を言いたいのかすら、わからないまま、ただ、和兎は自分の思いのたけを貴虎にぶつけた。


「まだわからないのなら、会って、話をするべきです。深く傷つくかもしれない。激しく拒絶されるかもしれない。けど、まだ、まだわからないじゃないですか……!

 もしかしたら、そばにいてあげることが一番の正解かもしれないじゃないですか!

 死者は、何も話してくれません。ただ、僕たちで勝手に彼らの言わんとしていることを解釈するしかない……、けど、彩葉さんは、ここに、います……! だから、彼女の言いたいことを、彼女が求めていることを、一番そばで、理解しようとしてください!」


 そう言い切って、和兎は、口を閉じた。

 きーんと、甲高い音と共に、寒くなるような静寂がやってきた。


「そ、それが、僕の、思っていること、です……」


 声が、しぼんで消えるように、小さくなって、消えた。


 しばらくの間、貴虎は黙っていた。

 しかし、やがて空を仰いで息を思いっきり吸いこんで、深く、深く、ため息を吐いた。


「………………」


 貴虎は、何も言わなかった。

 一言も発さず、和兎の横を通り過ぎて、ぱっと、去ってしまった。


「…………」


 和兎も黙って、貴虎の背中を見送った。

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