弾けるスネアは序章の合図

6話 弾けるスネアは序章の合図 ①


「涼子さん。俺、次の週の休日、そっちに帰ろうと思います」


「……そう。自己満足は終わったの?」


「…………はい。終わりました」


「わかった。帰ってきなさい」


 電話のやり取りは、思ったより淡々と終わった。

 今でも、心の底から納得できたわけじゃない。むしろ、無理やり押さえつけたせいか、心がまだざわついている。

 しかし、和兎に言われたことも、自分が見落としていた事実であることには変わりない。

 まだ間に合う。その言葉に変に影響されてしまったのかもしれない。

 一つため息を吐いた。空は、清々しいほどの快晴だった。


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「どーしたんだよ、和兎。顔真っ青だぞ」


 風呂上がりのぼやりとした時間。背後にいた龍真にそう声をかけられた。


「あぁ……。いや、なんともないです。はい」


 生返事しか返せない。

 今は目の前の会話よりも、自分がしでかしてしまったことに対しての脳みその整理の方が大切だったからだ。

 ……自分は、なんてことを言ってしまったのだろう。

 いくら言い訳を並べても、あそこまで貴虎に啖呵を切って、好き放題言ってしまったことの弁明にはならなかった。

 しかし、自分のことを激しく攻める一方、最低だが、「言ってやった。これでいい」という謎の納得があるのも事実だった。


(自分の問題すら解決できていないのに……。何言ってんだろ)


 いや、やっぱり僕は最低だ。


 自己嫌悪の渦にのまれながら、和兎はただぼんやりと夜を過ごした。



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 バチを握って、三週間がたった。六月ももう終わらんとしている。夏の足音が、刻一刻と迫ってきていた。

 夏が近寄れば近寄るほど、生徒会の仕事も、増えていった。

 屋台の企画の締め切りは終わり、出し物の企画書の締め切りも、間近に迫っている。許可が下りた出し物の企画書が目に入るたびに、龍真の横顔が目に浮かんだ。

 あの、何を思っているのか、何を感じているのかわからない。ただ、真剣さを感じさせるあの張り詰めた表情……。

 彼は、きっと、何かをしでかすだろう。いや、しでかしてくれる。

 このまま何事もなかったかのように終わってしまうんじゃないのか。そんな不安の渦中、どこか、彼の行動に期待してしまっている自分がいた。……そんな自分をどこか冷静に分析する自分もいて、可笑しくなって。和兎は少しだけ、頬をほころばせた。




「あ? ピアノ、弾いてみろって?」


「そう! お前結局俺たちに一回もピアノ弾いている所を見せてくれてねぇじゃねぇか! 俺はずっと不満に思ってたんだ!」


 ついに、我慢の限界が来たのか、龍真が貴虎に対してそう切り出した。

 和兎は止めなかった。口を出す勇気がなかったからだ。続けて八鶴が口を開いた。


「あぁ。俺も純粋に気になっていたんだ」


「いっつも教えられてばっかりだからな」


 鷹雄も静かにそう同意する。

 貴虎は露骨に嫌そうな顔をして、重いため息を吐いた。しかしやがて、舌打ち交じりに首を横に振りながら答えた。


「……まぁ、いいけどさぁ………」


「よし言ったな! すぐやろう! 今やろう! さぁ!」


「はや、嘘だろ……」


 貴虎の許可が下りた途端、龍真はぱぁっと顔を輝かせて、そのまま防音室に貴虎を連行してしまった。

 残された和兎たちも、彼の後をついていった。



「で、何弾きゃいいんだよ」


 不服そうなのを全く隠そうとせず、貴虎は四人にそう尋ねる。


「え、何でもいいけど」


「ふざけんな。それが一番困んだよ」


 ぱっとそう答えた龍真に対して、貴虎がはっきりと返す。

 少しの間、四人は固まった。四人とも、音楽の知識が全くないド素人だったからだ。ピアノの有名な曲だとか、有名な作曲家だとか、そういったものに疎すぎたのだ。

 おずおずと、今度は和兎が口を開いた。


「……貴虎さんが好きな曲とかはどうでしょう?」


「あーー……。好きな曲? 好きな曲かぁ……」


 はっきりとした拒絶はないものの、今度は困ったように貴虎は首を傾げた。


「ぱっと思い浮かんだものとかで俺は構わない。好きとか、何でもいいとか、そういうの抜きにして考えてみたらどうだ?」


「ぱっと思い浮かんだやつぅ……?」


 八鶴の提案に、貴虎はさらに首をかしげて、難しそうに頭を悩ませていたが、やがて、何か思い出したかのようにぱっと顔を上げた。


「そうだ。あれでいいか」



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 防音室に置かれている、残念な電子ピアノの前に立つ。

 音は変に安っぽいし、押し心地は軽すぎるし、座れないしで変な心地だったが、仕方ないと言い聞かせて、その曲を弾くために、鍵盤を指に添えた。

 気になる所は腐るほどあるはずなのに、そういう気持ちで鍵盤と向き合ってしまったとたん、すとん、と腹の底にある何かが納得してしまった。

 あいつらへの感情も、自分の感覚も、どこかに消えた。鍵盤は、勝手に降りた指に押されて、予想通りの音を返してくれた。



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 しん。とした空気を破り、音が一つ、落ちた。

 それは、突如として鼓膜を通し、腹の底に響いた。か細いく、儚げな、高い音。

 寄せては返す音の波。音と、それに詰まった一つ一つが、心に叩きつけられる。

 自分が立っているのか、座っているのかすら忘れてしまう。聴覚がその音を聞き逃すまいと、体のすべてを乗っ取ってしまったかのようだった。

 音は、上がって下がり、また上がる。

 響きが心にしみこんでくる。腹の底から、湧き上がるような震えが。心の底から形容しがたい興奮が、痺れをもって這い上がる。

 こめかみから、じん、とした痺れ。うなじからわき腹にかけて、ぞっと鳥肌が立っている。


 一瞬だった。

 深く、深く和兎は息を吸って、吐いた。呼吸をするのすら忘れてしまっていた。

 吸って、また吐く。次は、体の感覚が戻ってくる。いま、自分はあの狭い防音室に立っているという、実感が返ってくる。周りには四人の人がいるということを、遅れて理解する。


「…………どうだよ。なんか言ったらどうだ」


 ぶっきらぼうで、少し気恥し気な声で、貴虎が自分らに質問を投げかけてきたのを、ぼやりと認識する。しかし、口は開けない。言葉の出し方を、忘れてしまったかのように、口をパクパクさせるだけ。


「……あ、あぁ。うまかった、と思う……」


 歯切れ悪く、八鶴答える。


「……なんかすげぇのは伝わった」


 首をかしげながら鷹雄。

 その間、和兎は八鶴と鷹雄の表情が見れなかった。何も見ていなかった。いや、見れなかった。言葉と視界だけは、誰かにがっしりとつかまれてしまったかのように、自分に手元に帰ってこなかった。


「すっげぇぇ!! おまっ、すっっっっご!! うっは! なんだこれ! 鳥肌! 見て!」


「うるせぇ! 見せてくんなバカ!!」


 見たことがないくらいに興奮して、貴虎にからむ龍真と、うざそうに、やりづらそうな表情をしている貴虎。


「…………あぁ」


 誰にも聞こえない掠れた和兎のうめき声は、防音室の空気に紛れて、消えた。







 

 

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