5話 交わる音色はキーボード ②
今日もまた、あの穏やかな友人を待つ。
外に出るのも億劫になるような雨の日でも、その友人は必ず来る。小脇に本を抱えながら、少し申し訳なさそうな顔をして。
「ごめんなさい。少し、遅れました」
「いや、別に時間なんか決めてねぇしな。来てくれるだけでもありがたいさ」
一言二言、和兎と言葉を交わした後、貴虎はいつものように本を手に取った。
いつも、いっつも。精神疾患を中心とした専門書を手に取るたびに、この響町に来た日の夜の、「あの人」との会話を思い出す。
後悔はない。だが、この道が正しいのかも、わからない。それに、いつの間にか素人四人組の音楽の監督までしなければならなくなった。時間制限は、ない。けれど、じわじわと、胸の底をあぶるような焦燥感を日々日々募らせている。
(あんだけ鷹雄に大口たたいておいて、情けねー)
貴虎は一つ、雨の日に溶け込むようなため息を漏らした。
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バチを買った。
一組、安いものだと三千円もしない物も多く、ギターやベース――もちろん、できるだけ安くして入るらしいのだが、などの高いものを買った鷹雄や八鶴の覚悟を何だか軽んじているようで、少し、嫌だった。
「最初は初心者にお勧めってのを買っとけ。そんでそれに慣れた後、好みのやつを見つけるといい」
買ってきたバチを袋から出して、手に取る。
長さ的に、太い菜箸を買った気分だ。手には、全く馴染まない。
それは、何か新しいことを――故意的ではないにせよ。始めてしまったこと対しての罪悪感からなのだろうか。
「どうしたんだよ。そんな辛気臭い顔して」
ふと、背後から風呂上がりの湯気をまとった龍真に声をかけられた。はっと後ろを振り向いて、誤魔化すような笑みを浮かべながら、和兎は取り繕う。
「い、いえ……。ただ、少し心配で……」
「心配? 楽器に関してか?」
ひょいっと眉を上げて、意外そうに龍真は聞き返した。
そう、彼は悪くない。勝手に事情を抱え込んでいる自分が悪いんだ。和兎はさらに覆い隠すように言葉を積み上げる。
「はい。……ドラムって、少し難解なイメージが」
「わかる……」
言葉を漏らして、龍真は共感してくれた。
「ドラムの動きって全く分かんねぇよな。やってるやつらは簡単だっていうんだけど、俺たちからしたら……、って、経験者の俺が難しそうって言ってどうすんだ」
和兎を気遣って、龍真は自身の言葉を遮った。そして、励ますように言葉を続けた。
「大丈夫だって。俺も、あの貴虎ってやつも、音楽できるからよ」
「は、はい……。ありがとうございます」
か細い声で、和兎は感謝の言葉を口にした。
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放課後、早速五人は楽器屋に集まって、練習を始めた。
「あーっと、和兎。まず最初はドラムに慣れろ。両手足を自由に動かせるように」
「あ、はい……」
流されるがままに、ドラムの椅子に座らせられて、バチを握る。
今、楽器屋の防音室には、和兎と貴虎しかいない。ほかの三人は外にいる。
普段から二人、一緒にいることの多いはずなのに、目の前にいる貴虎は別人に見えた。
「いいか。まず、右手と足、右手と左手、右手と足、右手と左手……。これが無意識にでもできるようになっとけ。最初はゆっくりでいい」
「は、はい……」
と、返事をした後、和兎は少し気になって貴虎に尋ねた。
「あの……。ど、どうして全員で練習をしなんですか?」
「うるさくて練習になんねーから」
即答。あまりのバッサリぶりに、和兎は言葉を飲み込んだ。
貴虎は頭を掻きながら言葉を続ける。
「特にここの防音室は狭いから、全員で合わせるにしても音響をどうにかしねーと、本当に、な?」
貴虎はそう笑うと、手をパンっとたたいて区切りをつけた。
「じゃあ、やってみな」
「は、はい!」
その日の和兎の初めてのドラムは、「まぁ、ふつー」だったそうだ。
和兎の練習をおえて、鷹雄、八鶴に次々と基礎とその練習法を叩き込んで、最後、自分が防音室を使える番が回ってきた。
誰もいない一人ぼっちの狭い防音室で、貴虎は楽器には全く触らなかった。ただ、一つ、深いため息をついて、顔を両手で覆った。
「もう触らねぇと思ったんだけどな……」
才能を持つ人間には、それ相応の責任が問われる。それはある意味で、呪いともいえるわ。
痛ましげな顔をして自分に語り掛ける、自分の親代わりであり、師匠でもあった「あの人」が脳裏に浮かぶ。
「いい加減、なんとかしねぇと……」
「それがわかるまで、あなたは帰ってこなくていい!」
もうだいぶ時間がたったはずなのに、まだ、答えは出せていない。
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「どーしてあんなに貴虎ってやつは音楽に詳しいんだろうな?」
風呂上がり。ふと、素朴な疑問を龍真は口にした。
やっとけと言われた手首のストレッチをしながら、和兎も確かに、と、同意の言葉を口にした。
「僕たちは無理やり貴虎さんを引き入れましたが……、家庭とか、色々大丈夫なのでしょうか」
貴虎はどこか、龍真に似ている。
二人とも全くと言っていいほど自分のことを話さない。和兎の祖父に、自分の友人を治療してもらおうと来た。ただ、その目的しか話されていない。
どうして、この場所に居続けるのか、どうして、ずっとホテルにいても大丈夫そうなのか。どうして、――言い方は悪いが、治療法を探しているだけで、一向に帰ろうとしないのか。
謎だ。考えれば考えるほど不審で、奇妙で、不思議なのに、大丈夫だと、そう思わされてしまう。
「まぁ……彼にも、彼なりの事情があるのでしょう……。あまり、踏み込むのはよしましょうか」
「まー、そうだけどさ……」
踏み込んだところで、結局何もできない。
和兎はありきたりな言葉を続けて、その会話を終わらせた。
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