3話 スリーコードはセブンスへ ③
しとしとと、小雨が家の壁を叩いていた。
予報通り。外に出た龍真に傘を持たせて正解だったと安堵しながら、和兎は本をおいてゆっくりと立ち上がる。
冷蔵庫から作っておいたそば茶を取り出した後、うんと伸びをしていたその時、
――。
ふと、扉をノックする音が居間中に響いた。
「はーい」
珍しい、来客だ。
和兎はそう思って扉に近づいて、一応、扉の穴から外を覗き込む。
ビニール傘をさして雨を凌ぎつつ、扉が開かれるのを待っているのは、パーカーをきた、和兎と同年代くらいの少年だった。
まぁ、大丈夫かな。そう判断して、和兎はゆっくりと扉を開けた。
「いらっしゃい……。えっと……」
和兎が言いよどんでいるのを全く気にせず、その少年は口を開いた。
「熊谷さんのご自宅で合っていますか?」
「あっ、はい。そうですけど……」
外は雨、風も若干吹いているせいか、玄関先は少しだけ肌寒い。
和兎は少しだけ空を見て天気を確認した後、
「えっと、入りますか? その、少し寒そうなので……」
と、小さく続けた。
少年は案外素直に頷いた。
「……分かりました。じゃあ、失礼します」
そうして和兎は、少年を家に招き入れた。
||||||||||||||||||
「まぁ、ちゃぶ台の前、適当な所に座ってください。お茶、直ぐにお出ししますね」
和兎はそう言って、コップを追加でもう一つとると、そば茶を注いで少年の目の前に差し出した。
「……ご丁寧にどうも」
「いえいえ」
和兎も自分の分のそば茶をとって、少年の目の前に腰かけた。少年は何処か緊張した様に、口を真一文字に結んで和兎の事を待っていた。短い髪の毛に、まっすぐな目つき、何処か初めて出会った時の龍真を訪仏とさせるのは、龍真と同じで若干小柄な体形だからだろうか。
「……えっと、それで、どのようなご用事ですか?」
先に、和兎が口を開いた。
そう小さく伺うと、少年はどこか緊張した様に言葉をためた後、絞り出すように言葉を口にした。
「く、熊谷平助さんは、いらっしゃいますか?」
その名前が出された途端、和兎の頭の中に、大量の疑問符が浮かび上がった。思わず言葉が詰まる。質問が飛び出そうになるのを必死に抑えて、和兎はまず、その質問に答えた。
「……そ、祖父は居ません。い、一年前に亡くなりました」
和兎がそう言い切った途端、少年の顔が悔し気にゆがんだ。その顔をとらえた瞬間、和兎は思わず、「あ、あの」と食い気味に続けた。
「ぼ、僕は熊谷和兎といいます。……その、出来れば用件を伝えてくださいませんか? 何か力になれるかもしれません」
少年の表情が揺らいだ。食い気味の和兎に対し、少年はゆっくりと考えこむような素振りを見せた後、零すように言った。
「俺は
少年がそう言って小さな鞄から取り出したのは、一冊の新書。和兎の目に飛び込んできたのは、作者:熊谷平助。という文字列だった。
「えっ……」
和兎は思わず絶句する。もちろん、和兎と平助で二人暮らしをしている時、平助は全く自身の仕事について語らなかったから別に平助の仕事が本に携わる仕事である可能性はもちろんあった。
しかし、あの寡黙な祖父が文字を書き、しかも、
『現代の精神病と対人関係について』
医学に関して造詣が深いとは、全く感じ取れなかった。
「……もしかして、ご存じないのですか」
貴虎の落胆の混じった声。和兎は思わず謝りながら身を引いた。
「す、すみません……。祖父は自身の仕事に関して全く喋らない人だったので」
気まずい空気が居間中に漂う。最初に切り出したのは貴虎の方だった。
「――急に押しかけてすみませんでした。これ以上居座るのもアレだと思うので、俺はこ――」
「すげー雨だ! やべーぞ、おい、和兎!」
そんな貴虎の言葉を、思いっきり遮るはつらつな声音。
「あ……」
扉を思いきり叩きつけるようにして入ってきたのは、髪の毛も服もぐしょぐしょに濡らした龍真だった。
思いっきり居間に入ってきた龍真が、貴虎と和兎、そして居間に広がる重っ苦しい雰囲気を察して、
「あっ……。あー、なんか、ごめん」
「あ、あぁ! いえ! 入ってすぐに着替えてください! 風邪ひきますよ! 玄関で待っててください!」
外に出ようとしたのを、和兎は何とか止める。
すると、その騒ぎにかぶせるようにして、貴虎が和兎に尋ねた。
「じゃあ、俺はこの辺で失礼しましょうか? ご家族が帰ってきたようなので」
「え!? あー、いえ、はい。分かりました。すいません、こんなバタバタしてしまって」
バスタオルを洗面所から取り出して、龍真にかぶせながら、和兎は玄関から居間に龍真を上げる。貴虎はずぶ濡れの龍真を避けるようにすれ違った後、玄関の扉を開けて、和兎に向かって軽い会釈をした後、外に出た。
「……なぁ、和兎。あの人、誰だ?」
そうして貴虎が外に出た後、体を拭きながら龍真は不思議そうに和兎に問う。
「いえ……。僕の祖父に何か用があったみたいなのですが、詳しい事情は全く……」
「そっかー」
龍真は若干乾いた反応を見せると、靴下と上着を脱ぎながら、小さくつぶやいた。
「こんな所に来るって、よっぽどの事じゃねーの?」
「そう……、ですね」
その一言に、和兎の心は妙にざわついた。
||||||||||||
その日の夜、夕食を終え、龍真が風呂から出るまでの間、和兎は居間の端にある押し入れを、懐中電灯で照らしながら漁っていた。
「こんな所に来るってことは――」
龍真の言葉がフラッシュバックする。
埃を大量にかぶり、清潔とは言えない奥の方に手を突っ込んで汚れようと、和兎は手を止めなかった。
(どこかに必ず原稿があるはず……。ここ以外に物置きはないんだから)
和兎は必死の押入れを漁る。しかし、見たことのない万年筆や電子辞書が出てきても、貴虎の力になってくれそうな資料や論文は出てこなかった。
「…………」
あの貴虎が、何か勘違いをしているんじゃないだろうか。
ふと、そんな疑念が脳裏によぎった。記憶の中の遠い感覚だが、祖父が精神科医という職業についていたとはどうしても考えにくい。
「おーい、和兎」
和兎が疑心暗鬼にとらわれていると、ふと、背後から声をかけられた。
「あ、龍真さん」
後ろには、暖かい湿気を纏った龍真がいた。どうやら、風呂から出てきた直後らしい。
「どうだ? 何か見つかった?」
龍真の問いに、和兎が首を横に振って答えた。
「いえ……。それが全く」
すると龍真は大げさにため息をついてみた後、投げやりに言葉を続けた。
「まぁ見つかんないもんはしゃーねぇだろ。そんな責任感じる必要ないって」
「それは……、そうですけど」
龍真に言い負かされて、和兎は濁したまま言葉をこぼす。
「それよりさ、なんか面白いもん見つかったのか? なんか他にあんだろ、押し入れを探したんだし」
龍真はそこまで貴虎に興味がないようだ。和兎の目の前にある暗い押入れを龍真は覗き込んだ。
「何もないですよ。祖父は元々そんなに物を持たない人でしたから」
「へぇ、じゃあ形見はそのペンと電子辞書か?」
龍真が指をさしてその二つを示す。和兎は首肯する。
「まぁ、僕自身これを祖父が使ってた所は見たことがないんですけどね」
和兎は少し恥ずかしがりながら肩をすくめて言った。
「なんだか不思議な気分です。身近な存在だったはずなのに、こんなにも知らない部分がでてくるなんて」
すると龍真は、あぁ、とぼんやりとした声音で同意した後、
「近くにいる人ほど、案外分かんねぇもんだよな。意外と」
と、小さく零した。
貴方もそうじゃないですか。和兎はそう言おうとして、言葉を飲み込んだ。
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