3話 スリーコードはセブンスへ ④

 夜のうちに、いつの間にか雨は上がってしまっていたらしい。

 ぬっと鼻腔から這い上がる湿った雨の匂いを嗅ぎながら、和兎はなんとなくそんなことを思った。

 結局のところ、昨日やってきた貴虎の手助けになるような祖父の私物は見つからなかった。

 龍真は元気よく、「気にすんなよ」と言ってくれたが、それでも魚の小骨のようにずっと引っ掛かり続けるこの無力感を、今日の朝日が溶かしてくれることはなかった。和兎は苦い顔をして、ため息をつく。


(いや……。考えても仕方ないですよね。本当に、仕方ない、はずです……)


 もう一度ため息をついた。

 梅雨入りの前の、貴重な晴れだというのに、和兎には全く、その晴れを喜べる余裕がなかった。



||||||||||||||||||



 思いっ切り息を吸い込んで、吐いた。

 鮮魚の生臭い空気が、鼻腔を刺激する。もう何回目のため息だろうか。

 普段の一週間分の食材はもう買ってあるのに、無駄を自覚しながらも、和兎はスーパーへと足を運んでしまっていた。

 あのまま自宅に帰ってしまったら、自己嫌悪で的でいられなくなる予感がしていたからだ。

 とにかく今は、家に帰りたくない。そんな家出少年のようなことを思いながら、和兎はスーパーで意味もなく空虚な眼でスーパーの天井を見上げているイカとにらめっこをしていた。


(イカってそう考えると食べ方って割と少ないよな……。生、揚げ、あと焼き? いや、三種類あったら十分か。少ないって感じるのは、タコに知名度をとられているからなのかな……)

 

 イカは、相変わらず和兎と目を合わせることなく、宙を見つめている。


「すみません! このイカ下さい」


「あいよ!」


 和兎は衝動的にイカを購入して、鮮魚コーナーを後にした。


 さらに和兎は、イカに加えて焼きそばとその野菜たちを買って、そのままスーパーでの買い物を終わらせた。

 結局のところ、スーパーでの買い物も一時しのぎにしかならず、和兎はまたぼんやちと貴虎のことを考えてしまっていた。ため息をまた、大きく吐く。

 周囲は薄暗くなりつつある。

 車のエンジンが揺れる音と、ヘッドライトの明かりがぼんやりと浮かぶ街道を抜けて、数人の学生や主婦とすれ違い、山への道へと足を進める。次第に人の住む匂い――排気ガスやたばこの煙たい匂いが薄くなって、段々と木々の騒めきと冬の名残を思わせる鋭い空気が大きくなってくる。


(だめだ。変に考えたらまた辛くなる。やめよう)


 和兎はそう自分に言い聞かせながら、ずんずんと前へと進む。

 ふと、そんな時だった。


「あの、すいません」


 ふと、和兎は背後から声をかけられた。

 和兎はそのまま振り返り、そして固まった。


「……え?」


 龍真と同じくらいの背丈と、不機嫌そうな眼つき。あの時とは違って、どこか気の抜けた、そして妙に耳に残る声。


「貴虎、さん?」


 和兎は思わず彼にそう問いかける。顔を見て、分かっているはずなのに、和兎はそう問いかけずにはいられなかった。それほど、あの時と雰囲気が変わっていたからだ。


「そうです。貴虎です。奇遇ですね、こんなところで」


 対して貴虎はそこまで和兎に気を遣うわけでもなく、のらりくらりとそのままの様子で話を続けた。


「すんません。道を教えてくれませんか?」


 そうして彼が差し出してきたのは、彼の目的地が記された地図が開かれている、スマートフォンだった。


「えっと……」


 近場とも、遠い所とも言えない微妙な距離。駅前のすぐ近くが記されているため、分かるには分かるが、一言にこう。と説明できる語彙もなければ、目立つような建物もない。

 和兎はおもむろに時計を確認した。

 時刻は午後五時過ぎ。駅に行って、帰ってくる頃にはもう六時は優に過ぎているだろう。一瞬和兎は戸惑った。しかし、嘘をついてけむに巻くなんてことなんてできるわけもなく、選択肢ないから、和兎は覚悟を決めるよう息を吐いた後、貴虎に告げた。


「分かりました……。ちょっと歩きますけど、ついてきてくれますか?」


 和兎がそう問うと、貴虎は小さく頷いて、それに応じた。


 東の空はもう紫に染まり始めていた。

 和兎が歩いて、貴虎がそれについてくる。聞こえるのは自分たちの足跡と、遠い、車のエンジンが揺れる音と、風が木々をなぐ音だけ。重苦しい静けさが、二人の間に沈んでいた。

 

(あぁ、ダメだ。謝った所で何の解決にもならないのに……。けど、力にもなれない……。そのそもそのことを掘り出してもいいのか、よくないのか……)


 今、会話を切り出そう。そう思って口を開いて……、言葉を飲み込む。いや、今だったら言葉が……、いや、無理だ。

 そんなことを繰り返して。和兎はまた自己嫌悪に陥って、また、意味のない疑問にとらわれる。

 喉元から内臓にかけて太い縄が引っ掛かって、すごく気分が悪くて、吐き出したいのに吐き出せない。そんな気分だった。



||||||||||||||||||



 結局、和兎は目的地のすぐそばまで来ても、自分から会話を切り出すことができなかった。

 いつの間にか車は増え、人工的な明かりで辺りが満たされていた。排気ガスの匂い、人と物たちが作り出す騒音の中。ふと、背後で貴虎がつぶやいた。


「あ、ここだ」


 和兎はハッとして、背後を振り向く。彼の視線の先には、一棟のビジネスホテルが見えた。


「か、帰らずに止まるんですか?」


 ずっと自分の中で格闘していた和兎にとっては、その出来事は唐突で、思わず反射的に問いただしてしまう。

 質問された貴虎は怪訝そうに顔をしかめた後、絞り出すように答えた。


「いや……、別に、遠くから来たんで」


 言葉の隅々から拒絶が感じ取れてしまって、和兎は思わず、すみません。と会話を途切らせる。

 そしてそのまま、気まずい空気が流れた後、貴虎が先に切り出した。


「じゃあ、この辺で解散にしましょう。道案内、ありがとうございました」


「あ……」


 しかし、貴虎が和兎の葛藤を感じ取れるわけもなく、そのままあっさりと、貴虎はすたすたとその場から離れて行ってしまう。

 和兎は土壇場になって追い詰められた。だが、その唐突さが逆にきっかけになったのか、和兎は自分の想定していた何倍もの大きさの声で、貴虎を引き留めた。


「あ、あの!」


 周囲に声が響いた。

 幸い、周りに人はいなかったが、思わず和兎は口に手を当てて周囲を確認してしまう。

 呼び止められた貴虎本人は、迷惑そうに和兎の方に振り向いた。

 

「……なんですか?」


 ため息交じりのその声が恐ろしくなって、和兎は思わず口をつぐんだ。


「…………?」


  貴虎の迷惑がる不機嫌な表情が、不思議そうにこちらをうかがう表情になるまで、その静寂は続いた。

 和兎はきゅう、と頭が締め付けられるような感覚に陥りながらも、懸命に、声を震わせながら言葉を紡いだ。 


「あ、そ、その……、そ、祖父の、その、論文の事、なんですけど」


「あ、あぁ、それか。それがどうしたんですか?」


 貴虎の純粋な疑問が、和兎の言葉を詰まらせた。けれど、ここまで言ってしまった以上、もう後戻りができないことを、和兎は理解していた。


「ち、力になれずに、すいませんでした……」


 うなだれるように、そっと、頭を下げた。

 結局、長いこと考えて零れるように喉から落ちたのは、情けない、一言の謝罪。


「…………」


 何もない、何も言わない無言の空気が、頭を下げた和兎に叩きつけられる。

 和兎はただただ、次の言葉を待っていた。いつ頭を上げればいいかなんてわからない。ただ、彼の一言を、ずっと待つ。


 そうして、ようやく貴虎が和兎に向けてはなったのは、呆れたような、苛立ったような一言だった。


「別に、期待は……、してたけど、別にアンタを責めたって何も出てこねぇだろ」


 初めて、彼の砕けた口調を耳にした。

 和兎は思わず、はっと顔を上げる。

 苛立たし気に、忌々し気に、うっとおし気に頭をがりがりと掻きむしる、外向けの性格がはがれた貴虎は、一言、言葉を飲み込んだような間をおいてから、言葉をさらに続けた。


「つーか力になれずってなんだ。別にアンタに知識を要求してたわけじゃねーよ。平助さんが亡くなってたのは、まぁ、ショックだったけど、それもアンタが謝るべきじゃねぇだろ」


「で、でも……!」


 並べられる正論の数々。確かにその通りだが、その言葉でも、和兎の罪悪感は消えなかった。


「しつこいな……。別に気にしなくてもいい……って――」


 ふいに、和兎を振り払おうとした貴虎の言葉が、一瞬、途切れた。

 和兎は不思議に思って、完全に顔を上げる。そこには、悩む様に口元に手を当てている貴虎がいた。


「ど、どうしたん、ですか?」


 恐る恐る貴虎にそう尋ねると、尋ねられた貴虎は「あぁ、そうか」と納得したかのように言葉を漏らした後、あっさりと、翌日の約束を取り付けるかのように言った。


「じゃあ、今からでも力になってくれるか? 病気を治したい人がるんだ」


 ……今度は、和兎は黙る番になった。

 しかし、さっきのと違うのは、言った本人が答えを全く気にしていないという点だった。


「ま、嫌だったら別にいいぜ。とりあえず、明日もここに来い」


「え、いや、は?」


 和兎が引き留めようとするのも虚しく、貴虎は「じゃあな。ありがと」といって、さらに町の奥へと消えてしまった。


「ちょ、ま、まっ……!」


 和兎はそこから、自分の状況を理解する少しの間、その場に固まったままだった。

 龍真の腹の様子など、気に留める余裕はなかった。

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