唸るベースは滅私と愛
2話 唸るベースは滅私と愛 ①
0422
その日もいつも通り、目覚ましの音で始まった。
寝起きでフラフラする身体をなんとか立ち上げると、八鶴はすぐに洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨く。
もう4月も過ぎようとしているのに、水道水はまだ冷たかった。
部屋に戻ると、服を着替えた。そして荷物を持って、一階へ向かった。
「おはようございます。巣鴨さん」
「あ、おはよう八鶴。……ごめん、あのしいたけ切ってくれない?」
春物の緩い長そでの洋服で身を包み、明るい色のエプロンをつけている。寝起きの気だるさを全く感じさせない様子のその女性こそ、三鶴の親の巣鴨だ。
八鶴は短く、「わかりました」と答えると、エプロンを身に着けた後、慣れた手つきで巣鴨と共に今日の朝食と、弁当を作り始めた
「おはよう。お母さん、八鶴」
聞き慣れた声、三鶴のだ。
「あぁ、おはよう」
八鶴は手を止めて振り向き、三鶴にそう返す。
「おはよう。ほら、三鶴も少し手伝って」
「はーい」
三鶴は小さな欠伸を噛み殺し、台所にやってきた。
八鶴と巣鴨しかいなかった時とは違い、巣鴨と三鶴の間では、ゆるゆるとした会話が行われている。八鶴はそれをただ、ぼんやりと聞くだけだった。
「おおお、お兄ちゃん! 私の制服どこだっけ!?」
ふと、静かな台所に、高く快活な声が響き渡った。
ドタドタと階段を駆け下りて、砕け散った静寂を気にも留めず、八鶴たちの前に現れたのは、冷える早朝を全く感じさせない下着姿の妹――つばめだ。
高校生になったというのに、去年から全く改善がみられないその生活の乱雑さに、三人はほとんど同時にため息をついた。
「二階の吹き抜けに自分でかけていたぞ。さっさと服を着ろ」
八鶴がそう応答すると、つばめは、
「ラジャー! ありがと!」
と言い残し、二階にすっ飛んでいった。
どれだけ朝食が早く作り終わろうとも、どれだけ誰かが寝坊しようとも、この朝食は、毎日必ず四人で摂るようにしている。それが、この家の習慣だ。
「いってきます!」
「はい、行ってらっしゃい。気を付けてね」
巣鴨に見送られて、八鶴、三鶴、そしてつばめの三人は、雀鷹谷家を後にした。
「ねーねー。お兄ちゃんは三鶴のことどう思ってんの?」
突然、つばめが話しかけてきた。
黙って一人で何かをするという事が極端に苦手な彼女は、登校中はずっと、三鶴と八鶴の間を行ったり来たりする。
「藪から棒にどうした。それに、どう思うかと突然聞かれてもな……」
八鶴は思ったことをそのままつばめに返す。すると、つばめはやれやれといった様子で首を振り、肩を上げると、まくしたてるように言葉を続けた。
「あのさぁ、お兄ちゃんもう高校三年生なんだよ? 受験生なんだよ? 恋愛なんて、この時期のがしちゃったらもうないんだよ? ただでさえお兄ちゃんは絶好の時期を逃したんだから!」
つばめの言っていることの訳が分からず、八鶴はポリポリと頭を掻いた。
「いや、絶好の時期も何も、俺に色恋沙汰などなかったからな」
その八鶴の反応が気に食わないのか、それとも本気で呆れているのか、そのどちらなのか。まるで、「しょうがないなぁ」と言わんばかりのため息を漏らすと、つばめは投げやりな質問を八鶴にぶつけた。
「もう……。じゃあ三鶴は? 近親相姦だけど、どうなの?」
適当を通り越して雑な質問だったので、八鶴は切り捨てるように即答する。
「三鶴をそういう目で見たことはない」
「まぁ、そっちのが正常か……。私たち顔そんなに似てないし、行けると思ったんだけどなぁ」
「……なんだそれ」
つばめは心地よさそうに伸びをし、話を続けた。
「お兄ちゃんってどんな人が好みなの?」
「ど、どんな人……?」
「何の話をしてんのよ、つばめ。それに八鶴も」
先に行っていた三鶴もいつの間にか合流して、三人、下らない話をした。
「響魂祭に向けて、使われなくなった教室の整備をします」
――ガシャン!
放課後の生徒会室に、三鶴の声と、道具箱が机に置かれる音が響いた。
八鶴は思わず、またこの仕事の時期は来たか。と、憂いてしまう。
「……あの、三鶴先輩」
「ん? 何、熊谷君」
和兎がおずおずと三鶴に質問を投げる。
「そ、その、整備って言っても、学生がしていい事なんですか? それ」
その箱には、金槌や釘、のこぎりにやすりと、到底、一学生が整備と言って扱えないような道具が見え隠れしている。
「……? あ、あぁ……。なるほど」
和兎の質問をくみ取ると、三鶴は静かにうなずいて、
「実際に見てもらった方が早いわ。まずはそっちに行きましょう」
箱を手に取り、生徒会室の扉を開けた。
||||||||||||||
「この学校の小学生の人数を……、あなたは知ってる?」
広い校舎を歩きながら、三鶴は和兎に問いかける。
「いえ……」
「38人。一クラスしかない」
和兎の呼吸が揺らいだ。
三鶴はただただ淡々と、ありのままの事実を口にする。
「けど、昔は違かった。この地域全体の期待を背負ったこの学校と、ベビーブームが重なった時のこの地域の子供の数は、本当に、本当に凄いものだったらしいわ。あなたの地域には、まだその名残が色濃く残っているはずよ」
「……商店街、ですね」
和兎が三鶴の言葉を引き継ぐ。三鶴は和兎に頷きかけた後、また話し始める。
それまでの間、八鶴は何も言わなかった。いつも、いつも、この時期になると、三鶴は同じ話をする。ある時は先輩に、ある時は八鶴に。そして今は、後輩に。
「まだこの学校は運がいい方だわ。過去の実績からか、まだ見捨てられずに済んでいる。高校があるのは、ほとんど奇跡と言ってもいいくらいに」
重々しい空気が、この場所を支配する。
いつもは暖かい夕陽の光が、冷たく感じた。
「増設された、言ってしまえば粗末な教室は、優先的に使われなくなる。長年放置された教室は悲惨だわ。蜘蛛の巣が張り、木は腐り、酷い所ではハクビシンやアライグマが出たりする……」
静かな怒りを内包した言葉に、和兎はただただ、圧倒されている。
「だから、祭りの時期は外せない。校庭に屋台は出るけれど、その他の荷物置き場、休憩所、裏方。年に一回でもいい。なんにでもいいから、使ってほしいの……。だから、学生であっても行動を起こす。何でもする」
三鶴がそう言い切った後、八鶴たち三人の空気は悲惨なものになった。
何か言わなければ。そう思い立ち、八鶴は口を開いた。
「今は、いまはとにかく、整備について集中しよう。怪我をしてしまっては、素直に祭りは楽しめない。来年のことは、また別の時に考えるべき……。違うか?」
「……そうね。そうしましょう」
いつの間にか旧校舎の中に入っていた。
三鶴は教室の前に道具箱を置くと、和兎と八鶴の方をむいて、わざとらしく笑った。
「熊谷君。じゃんけんをしましょう。勝ったら一番楽なやすりの仕事をあげるわ」
「え……」
「期待してる。じゃあ行くわ。最初は――」
三人に増えた生徒会は、少しだけ、にぎやかになりそうな予感がした。
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