五 桃源
案内されたのは洞の奥に佇む小さな社の前だった。何やら石碑のような物が見える。
「このかんどころに、あおぎまつる、かけまくもかしこき、ことのあめのかまそそのおおかみのおおまえを、おろがみまつりて、かしこみかしこみまをさく……」
「えっ」
ジャマルが祝詞を唱え始めると、リャコの目の前の景色がぼんやりと溶けて崩れ始めた。驚いている間にも祝詞は続き、次第に別の場所の景色へと移り変わっていく。
「ど、どこ? ここ。これは、桃の木……?」
見渡す限りの静かな水。その上に小さな島があり、季節外れの花をつけた桃の木がぽつんと立っている。辺りは夜のように暗いのに、桃の花弁のひとひらまでハッキリと見えた。
「ここは桃源。世界のどこでもなく、しかし、世界のどことでも繋がっている」
「ギャビさん? あの、ジャマルさんは」
「ジャマルはあちらで祝詞を唱え続けている。こちらでの案内は私がしよう」
「これは、お伽話の? 大蝙蝠が流した涙でできた湖でしょうか」
「ああ。だから今も夜の王はこちらを見下ろしているよ。こちらからは、夜の王を見る事は叶わぬが」
ざんばら髪のギャビの指は、天を指し示していた。見られている、と思うと、妙に落ち着かない感じがする。
「何か、ギャビさんさっきまでと感じが違いますね。さっきはもっと、ぼそぼそ喋っていたのに」
「気づいたか。……今、ギャビの体を借りて話している。ギャビは今、夢で私になっている事だろう。さっき、私のペットを紹介したのは覚えているかい」
「えっ」
「おっと。私の名を呼ぶのはやめてくれよ。王に気づかれたくないのでね」
「わ、分かりました」
「ここは世界の始まりの場所だ。湖畔世界の母なる湖」
「あのお伽話は本当の事だった、という事ですか?」
世界が大蝙蝠の涙の霧から生まれた、という、フェリカでは誰もが知るお伽話だ。
「全てが真実とは言えないが。概ね、間違ってはいない」
「では、私達は、ただの霧でしかないのでしょうか」
「お伽話の最後を思い出しなさい。霧の中を進む火、それが私達だ」
大蝙蝠の涙から生まれた〝恋〟は世界に恋の火を灯して回ったという。それが為、世界は動きのなかった夢幻の世界から、人々が生きる現の世界へと変わったと。
「さぁ、リャコよ。力を望みなさい。そなたの欲するものを、天より押し戴くのだ」
言われた通り、天に向かって手を掲げると、どこかからジャマルの唱える祝詞が聞こえた。その声を遠くに聞きながら、リャコは祈った。王子の無事を。王都の人達の無事を。全てが元通り、平和のうちに戻る事を。
「かけまくもかしこき、ことのあめのかまそそのおおかみ、ひろきあつきみめぐみを、かたじけなみまつり、たかきとうときおんちから、よのためつくさしたまえとまをさく、くにのさぎりのとぎのうたを、きこしめせと、かしこみかしこみまをさく」
ぽつり。手のひらに水けを感じたように思って見つめると、小さな白い蕾が芽吹いていた。蕾は徐々に開いてゆき、八重桃の花になった。
花弁には無数の文字が書かれていたが……文字はすぅっと浮かびあがり、空間に溶けるように消えてしまった。かろうじて目で拾えたのは〝恋し君〟という言葉だけ。そのうち八重桃の花も、リャコの手に吸い込まれるようにして消えていく。
「き、消えてしまいました」
「そなたがその書の語り手となったのだ、リャコ。これからお前が紡いでいく物語こそが、その書の中身となる」
「これで本当に、力が与えられたのでしょうか」
「あぁ。書はきっと、そなたが心から求めた時に、その力を貸すだろう」
「えっ。あれ、ここは……さっきの洞?」
「さっきも言っただろう。桃源は世界のどことでも繋がっていると」
「本物のゴートさん? ……あの、こちらの二人は」
見れば、ジャマルとギャビはゴートの傍で横たわっていた。
「彼らについては心配いらない。少し眠っているだけだ」
「なら良かった。……世界中どことでも繋がっているなら、洞じゃなく、澄明宮に出してくれたら、帰りが楽でしたのに」
「残念だったな。まぁ、今宵はここで休んでゆくと良い。……そうだ、そなたが乗ってきたファングボアだが、ジャマルらが捕らえ、慣らし込んでくれた。帰りは乗って帰れるぞ」
「それは……何というか、ずいぶん移動が楽になりますね」
「そなたが名付けると良い」
「そ、そういうの悩んじゃうんですよ。明日まで悩んでもいいですか?」
「私は構わぬ。……ファングボアの代わりと言っては何だが、一つ頼みがある。ジャマルとギャビを、そなたに同行させてほしい。昼門の一族は、生まれながらにして特異な力を持つ。ファングボアを慣らしたのも、そうした力の一つだ。彼らは鳥獣と意志を通わせる事ができる。体は小さいが、役に立つぞ」
「分かりました。あの、私からも質問してよろしいでしょうか」
「書の事かね。私の目的の為、あまり多くを教える事は出来ないが。少しだけなら、話しても良いだろう」
「いえ。……その、グロズヌイさんとのご関係について」
「は?」
ゴートが固まった。ずっと柔和な笑みを崩さなかった美しい双眸が、一瞬、困惑に見開かれた。いまだ、リャコは〝力〟を手にしたという事に実感がない。望むものは何でも手に入ると言われても、眉唾程度にしか思えなかった。それより、どうせ夜明けまでここを発つ事が出来ないのなら、今のうちに聞きたい事が山ほどあった。
「ぐ……グロズヌイか。あれは、元はみなしご。たまたま、ジャマル達が森でさまよっているのを見つけてきたので、保護して、大人になるまで育ててやった。私の考え方には賛同できかねると、ここを出て行ったが」
「何て事! じゃ、じゃあ、あなたはグロズヌイさんの養い親!」
「そういう事になるな」
「あ、あの、小さい頃のグロズヌイさんってどんな方でしたか!?」
「よく気のつく、利発な子だった。一を聞いて十を知り、百を質問してくるような子だった。こちらが一つ教えただけで、あの子の頭の中ではどこまでも想像が広がっていったかのようだった」
「や、やっぱり! 小さい頃からすごい人だったんですね!」
「そなたも、あれに似ているところがあるように見受けるが」
「ほ、ほほほほんとですか!?」
「少し落ち着きなさい……。しかし、本当に良いのか? 書の事について聞いておかなくて。明日にはここを発つのだろう? 私は別に、あと二日ぐらいなら、いても構わぬと思うが……それ以上は、昼門の者達の食糧が尽きてしまうでな」
「いえ。明日発ちます。私のお仕えしている方が無事なら、きっともう澄明宮に着いているはず。今、古王国は大変な時。一刻も早く戻り、彼の人のお役に立たねば」
「まぁ、そなたが聞かぬというなら、私からわざわざ教える事でもないのだが」
腑に落ちない様子のゴートに、リャコは勢い込んで聞いた。
「そ、それで、グロズヌイさんはいつ頃から物語を書き始めたのでしょうか!?」
「わ、分かった分かった。最初から話してやるから、座りなさい」
「はいっ」
膝の皿が割れる勢いで、その場に正座する。今日は長い夜になりそうだった。
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