八 凶鳥の騎士

 リャコは牙を踏み台に、ファングボアの背の上に跳びあがった。空中で一回転し、巨猪の後背に着地。


 直後、ずどん! と凄まじい音がして、地面が揺れた。標的を失ったファングボアが、その勢いのまま、崖の斜面に激突したのだ。


 斜面がえぐれ、小さな土砂崩れが起きている。もうもうと土煙が立ち上るなか、激突の衝撃をものともせぬように、巨体はゆらりとリャコ達の方に向き直った。


「ちょ、ちょっと、目が血走ってない?」


「……そういえば、思い出しました。桃蜜病の患者が発する匂いは、魔物達にとっては得も言われぬかぐわしさで、普段は穏やかな魔物でも、興奮して襲いかかってくるって」


 ファングボアの鼻息が荒い。明らかに、正気を失っている。


「そんな」


「これは……麓までどちらが早いか競走かしら」


「だ、だめみたい。今の揺れで、下りの道のほうにも、土砂が」


 ちらりと後ろを振り返ると、大量の土砂で道が塞がれているのが見て取れた。


「ごめんね、リャコちゃん。私が、もう一人のおじさんが怖いなんて、我がままを言ったから。あのおじさんだったら、どうにかなったかもしれないのに」


「おっと。侮られていますね、私? 例えティルヒムさんが相手でも、いい勝負をする自信はあるんですが」


「で、でも……。ねえ、私を置いて逃げられない? あの魔物の狙いが私なら、私が食べられている間に、リャコちゃんは逃げられるかも」


「馬鹿な事を」


「で、でも……、ま、また来るわ!」


「くっ」


 先程のような離れ業を、もう一度成功させられるだろうか。次、再び躱せたとして、その次は? いつまで、リャコの体力は持つだろうか。既に夜通し駆け続け、体力にも陰りが見え始めている。その状態で、極限の緊張の中、幼い子供を守り抜く事が出来るのだろうか。


「それでも、やるしかない」


 リャコは決意を新たに、ファングボアを睨み据えた。その時――、


 影が、差した。


 怪鳥の啼く声。羽ばたきの起こす小さな嵐が、リャコ達の顔を打つ。天より飛来した猛々しい熊の前肢が、猪の魔物を押し伏せる。巨大な鷲の嘴が、ファングボアの首筋――、その脳髄をついばむ。


 ひらり、凶鳥から舞い降りたのは、月白の髪をしたリャコの主。


「やぁ、リャコ隊長。迎えにきたよ」


「ゆ、ユーシュン王子……?」


 ぽかんと突然現れた王子を見つめると、王子は柔らかく微笑みを返した。


「マールから病気の子供がいると聞いて、急いで来たんだが。僕の判断は間違っていなかったようだね。危うく、僕のお嫁さんになるかも知れない人を死なせるところだった」


「も、もう! その話はお断りしたはずです!」


 安心と、それから、またしても間の抜けた顔を晒してしまった羞恥からか、急に頬が熱くなる。リャコに背負われたままのチーメイが、楽しそうに声を上げた。


「りゃ、リャコちゃん、王子の求婚を断っちゃったの? なかなか隅に置けないわね」


「ち、違います。王子は私をからかってるだけです!」


「からかってなどいないさ。むろん、僕だって君のお父上には助かって欲しいし、その為にも、リャコ隊長には武統祭で勝ち残って欲しいけれど。何事にも、想定外の事は起こり得る。仮にリャコ隊長が負けてしまった場合でも、僕との結婚祝いという事で、減刑を嘆願してみる価値はある」


「もう! 絶対勝ってみせますから! 私がそうするしか、ないのでしょう!?」


 あの日、父ゼルマリルを助ける腹案として王子が提案したのは、非常にシンプルな策であった。五年に一度、ソルグレイグで行われる〝武統祭〟に出場し、見事勝利せよ、と。


 全ての武芸を意味する十八の武器を持った戦士達が一堂に会し、王の御前で武を競う、祭祀的な意味合いの強い大会だ。その九人の勝者は、どんな褒美も思いのままだとされている。少なくとも、建前上は。


「そう。一度刑が決まった罪人を赦免するなど、王家の名において下された裁定を覆す願いだからね。他の誰でもない、唯一の身内である君が願い出なければ、過去の例から言って、聞き入れられる事はなかろう。……むろん、勝った後でも、僕の妻になってくれるなら、こちらは一向に構わないのだけれど」


「私は構います!」


「リャコちゃん、やるぅ」


「もう、からかわないで……」


 顔が熱い。どうせ、王子は自分の反応を見て楽しんでいるだけなのだ。そう思うと腹も立つのだが……、どうにも、この王子を前にすると調子が狂う。


「ん、クルーグ。お前さっきから、落ち着かない様子だが」


 と、王子が、先程までファングボアの脳髄をついばんでいた魔獣に声をかけた。大鷲の頭と翼、熊の前肢、獅子の後肢を持つ化け物である。王子が王国唯一の乗り手だとされる怪鳥、オピニクスだろう。


「ふむ……。クルーグのこの反応、それから、滅多に自分から人を襲ったりはしないファングボアの、さっきのような猛り狂った様子。……もしかして、その子は桃蜜病ではないかな?」


「っ! よ、よくお分かりで」


「だとするなら、クルーグ。落ち着きなさい。彼女を害する事はまかりならぬ。よもや僕の命より、獣の本性に従うだなどと、愚かな選択はするまいね?」


 王子がそう命ずると、猛り狂ったファングボアを瞬く間に屠った化け物は、クェエと一つ不満そうに啼いて……それから何するでもなくその場に座り込み、もはや啼き声一つあげぬほど大人しくなった。王子がにっこり笑って言う。


「さぁ、お乗り。軍医の元まで、連れて行ってあげよう」


 促されるままクルーグの背に乗ると、王国で唯一のオピニクスは遥かな高みまで一瞬で、音もなく飛翔した。


「おや、後ろをご覧。二人とも」


「あっ……」


 息を奪われた。


「リャコ隊長は、世界蛇を見るのは初めてかい?」


 王子の気遣わしげな声が遠くに聞こえる。だが何か言葉を紡ごうとしても、浮かんだそばから霧消してしまう。どのくらいの時を、無言でいたのだろう。星がいくつも瞬くように、浮かんでは消える言葉の中で、一つ薄っすら消えずに残った言葉があり、呼吸の順序を忘れたリャコの口から、知らず転がり出ていた。


「すごい」


 眼下には〝山のように〟という言葉が単なる誇張ではない、それほどに巨大な蛇の、その骸が、地平線の先まで横たわっていた。これが、世界蛇。小さき人の子らに人界の果てを厳然としろしめす境界線。


「す、すご。こ、こんなにはっきり見たの、初めて……」


 チーメイが少し苦しそうにしながらも、感嘆の声を漏らした。この辺りは急峻な山々が多く、地上から見上げても、稜線に隠れてほとんど見えないという。


「〝其は世界を東西に分かつ壁、其は人界を魔より隔つ慈悲、其は人の栄えの果て、其は人の無力を見せしめしものなり〟」


「なんだい、リャコ隊長? なかなか詩人だね」


「え? あっ、いや、これは……」


「……分かるわよ、リャコちゃん。この景色を見たら『青嵐記』ファンなら絶対に言いたくなる台詞ですものね」


「あっ、あの、口に出ていたとは思わず。その、わ、忘れてくださいぃ」


「いいのよ、リャコちゃん。恥ずかしがらないで」


「ひぃいん」


 まさか王子にあろうはずもない詩作の才を褒められるとは思わなかった。リャコは羞恥で一人顔を熱くした。

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