七 桃蜜病

 急峻な山道を、リャコは駆けていた。背に年端もいかぬ少女を負って。


「チーメイちゃん、がんばってください! 今、山の向こうで王国軍の軍事演習が行われています。軍医様なら、チーメイちゃんの病気を治すお薬をお持ちのはず」


 夜通し駆け続け、空はもう白みはじめている。


「ぐ、軍ね……出来れば関わりたくなかったけれど」


「そうですよね。チーメイちゃんは方面軍に騙されて売られたんですもの。ですが、今は一刻も早い投薬が必要です。おそらく、お薬をお持ちで一番近いのが軍医様のところなので……それに、麓で演習をしているのは中央軍です。組織が違えば、性格もまた異なります」


「わ、わかってるわ。それより教えてよ。私は一体、どんな病気にかかっているの?」


「それは……あの、あまり話したりせずに、安静にしていてください」


「お願い、何か話していないと、意識が飛びそうなの。寝たら、もう起きられないような気がして、怖いの」


 チーメイの声は今にも消え入りそうに聞こえた。


「仕方ありません……分かりました、お教えします。チーメイちゃんの病気は、おそらく桃蜜病とうみつびょうであろうかと」


「と、桃蜜病……?」


「チーメイちゃんは、青嵐記の作者の前作『恋歌桃れんかとう』はご存知ですか?」


「ごめんなさい。知らないわ」


「まぁ、知らないのも無理はありませんね……。氏が有名になる前の作品ですし、お得意の軍記物じゃありませんから。悲恋の物語ですけど、最後にほっこり心が温まるようなお話ですよ。悲しくて泣けるのだけど、それだけじゃないと申しますか。病気が治ったら、ぜひ読んでみてください! 筋を話してしまうと台無しですから話せませんけど、主人公の女の子がとにかく健気で……」


「そ、それ、私の病気と何か関係あるの……?」


「あっ、そうでした! その『恋歌桃』に出てくる病が、まさにチーメイちゃんの罹っているであろう桃蜜病なんです。体中の血が蜜のように甘くなってしまう奇病で、本のタイトルにもなった『恋歌桃』という品種の桃に含まれていた毒が、この症状を引き起こすと言われていす」


「へぇ……じゃ、今の私は甘くておいしいのね」


「ええ。多分、すごく甘いと思いますよ。……桃蜜病に罹ると、他の病への抵抗力が極端に落ちると言われています。その為、ちょっとした風邪でも、今のチーメイちゃんみたいに重症化してしまうのだと。毎年、桃の季節に、知らずに恋歌桃を食べ続けているだけでも毒が蓄積していって、いつの間にか発症してしまうそうです。もっとも、桃蜜病の原因となる事が知られてからは、恋歌桃は国内では見られなくなったはずなのですが……」


「そうなんだ。確かに私達、よく桃を食べさせられていたわね」


 そのチーメイの独白を、リャコは聞き洩らさなかった。


「あの、さっきもディマイオくんと話していて思ったのですけど……、チーメイちゃん達はもしかして、子供達が売られていく先をご存知なのですか?」


「ええ。私達はあそこから逃げ出してきたの。あと少しでルコムテの町に着くというところで捕まってしまって。連れ戻されそうになっていたところを、ポンちゃんに助けてもらったのよ」


「な、なんて事! そ、その場所の事を、もう少し詳しく教えてもらえないでしょうか」


 犯罪被害にあった子供達が何の目的で集められたのか、その手がかりの一端に、リャコは辿り着きかけていた。


「いいわよ。でも、一つだけ教えてちょうだい。その、桃蜜病? だっけ? それってその桃を食べている子は、みんなそうなるの?」


「大人になればなるほど罹りにくくなるそうです。ただ子供の場合ですと、個人差はあるようですが……毎年食べていれば、いずれみな罹るらしいですね」


「じゃ、じゃあ、弟が」


「弟さん?」


「一緒に捕まった、弟がいるのよ。でも、逃げ出すさなか、はぐれちゃったの。それに、弟だけじゃないわ。ディマイオだって危ない」


「お、落ち着いてください! 毒の効果を薄める薬があります。毒が完全に抜けるまでには、いくらか年月がかかるそうですが。薬さえ飲んでいれば、毒が抜けきっていなくとも健康な子と変わらない生活が出来るそうです。チーメイちゃんが落ち着いたら、ディマイオくんにも飲んでもらいましょう」


「お、弟が心配よ……。私達と同じぐらい、桃を食べていたもの」


「弟さんも、助け出さなきゃなりませんね……。この件も、王子にお縋りするしかないかも知れません」


 と、その時――、チーメイが鋭い声を上げた。


「ね、ねえ、リャコちゃん! あれ見て!」


「えっ? あ、あれは……ファングボア!? なんでこんなところに」


 馬ほどもある巨大な猪が、山間の狭い道を塞いでいた。その牙は鹿のように枝分かれしているが、鹿のそれより何倍も太く、例えガロンドがいたとしても、到底折れそうには見えない。大きさだけなら、ポントルモの操る樽の巨人とも変わらぬサイズだが、目方はおそらくその何十倍もあろう。突進でもされたら、念入りに葺いた土壁の家であろうと一撃で粉々になりそうな、雄々しい体躯をしていた。


「だ、大丈夫です。チーメイちゃん。ファングボアは雑食だけど、他の動物を襲って肉を食べるような事はしないはず……」


「で、でも! 明らかに、こっちを狙っているわよ?」


「な……、どうして!?」


「と、突進してくる! リャコちゃん、避けて!」


「くっ!」


 道いっぱいに立ち塞がる巨体が、リャコ達に向けて突進を始めた。逃れようにも、崖から転がり落ちるか、崖を駆け上がるかしか道はない。


「そんなの、どっちも選べるわけ……っ」


 リャコはあえて、巨猪の方に向けて駆けだした。突進の為、頭を低くしているおかげで、ファングボアの凶暴な牙の、その切っ先が下がっていた。タイミングを一つ間違えれば死ぬ。そのような状況で、リャコは力一杯地を蹴った。


「チーメイちゃん! しっかり捕まっていて!」


「きゃあああっ!」


 山道に少女の叫びが響き渡った。

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