五 夜伽の書

「今一度確認するが、この話を聞いたら、君は罪人だ。それでもなお、意志は曲げないか? 今ならまだ、何も知らない顔で、半年もしたら俗世に帰る事ができる」


「く、くどいですっ!」


 優しく聞かれると、意気地が砕けそうになる。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。王子は溜め息一つ、語り始めた。


「何から話せばいいだろう。物語には、力がある」


「え?」


 急に一体、何を言い出すのだろう。


 ふとリャコの頭によぎったのは、お気に入りの冒険活劇のワンシーンだった。戦場を埋め尽くすオメガトータスの群れ。その首に曳かれた投石器から、雨のように降って来る岩弾の間を駆け抜けて、敵将の首を討ち取らんとする青き疾風。しかし、敵は彼を侮ってはいなかった。木陰に隠れた無数の弓兵達が彼ただ一人を狙い撃つ。一矢弾き、二矢弾き、続く雨の矢にたまらず横転。あわやその首に必死の一射が届かんと迫るまさにその時、リャコには本をめくる手を止める事など出来ない。そういう、物語を読み進めさせる力の事かと思ったが、どうやら違うようだ。


「君は不思議に思った事はないかい? 君の父上が狩ったというファングボアを、別のどこかで見た事はないか。馬のように大きく、そこらのなまくら刀じゃ傷もつけられないほど分厚い毛皮の化物だ。剣さえろくに振った事もないような男が、一人で狩れる代物じゃない」


「確かに、そうですけど……」


「例えば、恋の火を盗み集めた盗賊の話を、この国の子供ならみな知っているだろう? どんな姿にも化けられる盗賊が、他人の恋の火を盗んで回る。だが、最後には自分の裡にある火に気づいて、燃え尽きてしまう」


「盗賊が集めた火が集まって、太陽になったという、あの話ですか?」


 王子が例に挙げたのは、フェリカでは一般的によく知られたおとぎ話だ。他国にも同様の類型が多く見られる、特異な生まれをした男がオーガ退治をする話と同じような。


「そうだ。誰もが知っている物語には、力が宿っている」


「あの、何の事だか」


 すると、王子は楽しそうに笑った。


「夜の王が、力を貸すのだそうだよ。お気に入りの物語を聞かせる語り部にね」


 途端、夜の帳が下りたように辺りが暗くなった。


「えっ!?」


 視界が完全に閉ざされる寸前、いつの間にか王子の手に、一冊の書が携えられていたのを、リャコは確かに見た。


「夜伽の書と呼ばれる」


「あのっ、王子? 急に暗くなったんですけど、こ、これは一体……!?」


「これが、禁忌と言われる書の力さ。もっとも、僕はごく狭い範囲を暗くする事ぐらいしか出来ないけれどね。だが、書の力は多彩だ。ゆえに、秘匿とされる」


 リャコの脳内は混乱の極致にあった。必死に、王子の言葉を思い返す。王子は今何と言っていた? まるで王子自身がこの闇を生み出したかのような言い分ではないか。とするなら、ちらりと見えた、王子の手に携えられていた書が――


「この本にはね、恋し娘に近づきたいあまり、夜の闇に紛れ、娘の思い人のふりをして、夜な夜な逢瀬を重ねた哀れな男の話が書かれている」


「その話は……読んだ事があります。恋の火を盗み集めた盗賊の話に出てくる、一つのエピソード。夜のうちしか娘に会えないのに、娘は昼のうちに思い人と知り合ってしまって、男は次第に、娘の思い人のふりが出来なくなってしまうのでしたっけ。それで男は、娘の恋の火を奪ってほしいと、盗賊に頼み込む」


「その通り。男の望み通り、盗賊は娘の恋の火を奪う。すると娘は死人も同然のようになって、全ての物事に対する関心を失ってしまうのさ。深く後悔した男は、自分の裡にある火を奪って娘に与えてほしいと、盗賊に頼むんだ」


「つまり、私の父が関わったという書にも、このような超常の力が?」


 目が馴化し、おぼろげながら王子の白い髪が見えてきた。その王子が、少し微笑んだように見えた。


「話が早くて助かる。そう。我が王国はこの術を長らく王家やごく一部の大貴族だけに独占してきた。フェリカは古王国と呼ばれるぐらいだから、大昔はこの辺りで国の態を為していたのはフェリカぐらいしかなくてね。その頃からの伝統だよ」


 到底信じがたい話だが、実際にこのような魔術を見せられては信じざるを得ない。


「では、父は王家しか手にしてはいけない書に、何らかの形で関わってしまった?」


「いや。それどころか、僕はゼルマリルがこの書の研究家だと思っている」


「なんですって」


「近年、周辺国で、原則非公開ながらも、政府機関等のごく限られた範囲内での書の研究が盛んになってきている。その流れを受けて、二十年ほど前、我が国でも書の研究を推進すべしとの議論が起こり、一部の知恵者にのみ書の存在を明かし、研究を始めさせた。だが結局、貴族達の反発があり、やはり書の存在は隠匿する方向に舵を切った。関係者は皆殺しにされた」


「でも、それなら! 当時の関係者がみな死んでいるのなら、父は関係ないんじゃ」


「それがそうでもないんだ。一人だけ、ある女性の手引きで逃げ果せた者がいたと、当時の記録には残っている。それが君の両親ではないかと、内々に調べていたところだったんだ。そうしたら、父上の上役、バデックが欲をかいてね。彼よりもっと上の、中央貴族と共謀し、王家の転覆を図っていたらしい。末端の彼が書を買い求めようとして、こちらの仕掛けた網にかかった。おまけで、十何年も行方知れずだった君の父上の情報までついてきたと、そういうわけだ」


「そんな……」


 呆然としていたら、手を引かれた。暗闇から抜け出て、陽の下で王子の顔をまじまじと見つめてしまう。


「これが今回の事のあらましだ。納得したかい?」


「なっ、納得だなんて!」


 出来るわけがない。父は王家の都合で集められ、都合が変わったからといって殺されそうになって? 何とか逃げ果せたのに、十何年も経った今また、殺されそうになっているだなんて。そんなの、あまりにも勝手すぎる!


「ならばどうする? 書について知ってしまった君も、この国の法に照らせば、もはや罪人だ。もっとも、君が妾になるというなら、一応ながら君も王家の一員という事になる。知ってしまった事については黙っていてあげよう。放逐は出来ないから、一生僕の妾のままでいてもらう事になってしまうが」


「け、結構です! 妾など。元々、望んだ結婚でもなかったのですから」


「残念だ。ならば、父娘ともども罰を受けるしかないね」


 悔しい。悔しい悔しい悔しい。そんな理不尽があってたまるものか。目に涙が溜まっていくのが分かる。しかし、悔しいけれど、小娘一人の力でどうにか出来るような事じゃない。さっきの手勢を考えれば、ここから逃げ切る事だって難しいだろう。でも、泣いてなどやるものか。リャコはきっと王子を睨み据え、宣言した。


「分かりました。死ぬしかないというのなら、受け入れましょう。でも、あなた方になんて殺されてなんかやらない! 舌噛み切って、自害してやる!」


 涙よ、こぼれるな。精一杯目を見開いた。リャコは本気だった。本気で舌を噛み切ろうと、大きく口を開けた。せいぜい、目の前で民に死なれて嫌な思いをしたらいい。最後の力で、噛み切った舌を王子に向かって吹き飛ばしてやる。権力によって無辜の民を死に追いやった後味の悪さを、折に触れて思い返すがいい。そう思った。


 のに。


 きょとん、と。


 リャコを見つめる王子が、あまりに翡翠の目を大きく見開くものだから。


「おやめ」


 すぐさま王子は我に返り、リャコの口に親指を挿し入れてきた。これでは舌を噛み切れない。


「なかなか気概のある子だ。気に入った。君にそこまでの覚悟があるのなら、一つ手がないわけじゃない。うまくすれば、父上も助けられる」


「……きいれらいんれふけろ」


 そんな手があるのなら、もう少し早く言ってほしかった。そうすれば、こんな間の抜けた顔を、晒さなくても済んだのだから。

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