二 暗転

 裂帛の気合が辺りに充満している。


 師は二刀のうち一刀を鞘に収め、ただ一刀のみを構えて先程から動かない。リャコは深呼吸をし、師に教わった事を脳裏で反復。静かに、構えを取った。観客も、これが両者にとって最後の一撃になると気づいたのだろう。どよめきは波を打つように静まっていき、今や夜の湖のごとき静けさだ。


「行くよ」


 こくり。頷く。


「ふっ」


 迅雷の一突き。その構えから、まっすぐ喉元目掛けて突き込んでくる事は分かっていたというのに、ろくに反応すらままならない超スピード。両者の距離が、一瞬にして溶けて消えた。しかし。


「やぁっ!」


 ぎゃりぎゃりぎゃり!


 凄まじい音がして、金属同士が擦れあう。パーセルの突き込んだ剣を、リャコはどうにか圏の穴で絡めとっていた。


 ここで気を抜いちゃ駄目!


 己に言い聞かせる。初撃を凌いで安心していたら、以前の二の舞だ。どうせ相手は王国最強。リャコの全力の一撃でも、死に至らしめる事などあるまい。全身全霊をもって体をねじり、もう片方の圏を師の鼻っ面に突き込む。精一杯伸ばした圏が、師の鼻先をかすめた。


 どさっ。


 背後で何やら重い音がした。観客の一人が興奮のあまり身を乗り出して、席から落ちでもしたのだろうか。


 勝敗は誰の目にも明らかだった。裂帛の突きを絡め取られ、逆に鼻先に圏を突きつけられて硬直しているパーセル。彼の――偽の、ではあるが――攻撃を全て凌ぎ切り、ただの一撃で相手の動きを止めてみせたリャコ。


「ま、まさか……そんな」


 驚いたように、師が目を見開いていた。


 ふと自分が泣いている事に気づく。これで終わったのだ。今に祭司が手を取って、リャコの勝利を高らかに宣言するだろう。褒美に父の助命を望み、その後はソルグレイグで仕事を探す事になるだろう。


 王子やパーセル、マール達とも会う機会は激減するはずだ。以前、王子はリャコを娶りたいと言ってくれた。それは本心だったのだろう。けれど、そこに恋慕に類する感情がないのは、鈍いリャコにだってハッキリと分かっていた。〝もしも〟はもう、永遠に訪れない。


 ただの感傷だ。涙をぬぐい、前を向く。


 だが、ふと見上げた師の顔に、リャコを寿ぐ様子はなかった。ただただ、驚愕に目を見開いているように見える。師の唇がわなわなと震える。


「そんな、だ、誰が? どうやって」


「えっ?」


 と、場内に荒々しい足音が響く。


「王子、王妃! お逃げください! 城外に敵軍、およそ二万が煙のように突然現れ……ソルグレイグの常備軍は三千。これでは持ちませぬ! しかもオムシュエットの大軍が空から侵入し、城門を……旗印は、シュエン新帝国!」


 美しい黒髪をなびかせ叫んだのは、武統祭中の王都の守りを任ぜられていた王国鎮護の要ジェナス将軍である。しかし、リャコにはその声も聞こえてはいなかった。歯車が砂を噛むように、音が意味を結ばない。


 パーセルが指差した先、脇腹から血を流し、蒼白な顔で倒れている人物がいる。リャコのよく知った横顔。月白の髪。海を感じさせる両目は今は苦悶に歪み、


「お、王子……? どうして……?」


 血が。血が。流れて小さな川を作り、リャコの足元まで流れてきた。


「だっ、誰か! 医者を!」


 パーセルが取り乱して叫ぶ。試合場に踏み入ったジェナスがパーセルの肩を掴む。


「なっ。こ、これは……。パーセル! 一体何が起きているのだ!? なぜ王子が倒れている!? なぜ王妃が血塗れの、剣を……」


「ぼっ、僕にだって分からないっ。ジェナス師匠こそ、大軍って、一体……」


「そうだった。医者は間に合わぬ。パーセルお前、殿下を抱えて逃げよ! この都はもう持たぬ。私は王妃を……」


「……そっ、そうしたいのは山々なんだけど……!」


「うっ、動け! 動け! なんで。なんで動かないの、私の足っ!」


 王子の元に駆け寄りたいのに。今もなお流れ続けている血を、少しでも止めて差し上げたいのに。全身が鉄にでもなったかのように硬直し、動く事が叶わない。弱弱しい声で、王子が呟く。


「パーセル、ジェナス……〝書〟だ」


「王子! 駄目! 動いたら、傷がますます!」


「母上が書を使って、お前達の動きを封じている……。僕も、僕に近しい臣も、この場で一人残らず殺めるつもりだ……」


「その手を止めてくださいっ! 王子ッ!」


「母の持つ書は、視界に捉えた相手にしか効果はない。ぼ、僕の持つ書で視界を遮る。その間に逃げるんだ」


「王子ッ! 手を止めて……!」


「澄明宮なら、恐らく安全だ。リャコ……」


「王子ッ!!!」


「巻き込んで、すまなかった」


 視界が暗転した。体が自由になった、瞬間、何者かに突き飛ばされる。


「リャコ、しっかりするんだ! 動きを止められていた間に、暗殺者に囲まれている! 殿下のおかげで、斬り殺される前に何とか動けた! ここは僕が抑えるから、リャコは殿下を!」


「助太刀いたすぞ、パーセル。暗殺者など、殿下のお傍には一歩たりとも近づけさせぬ」


「助かる、師匠!」


「だがお前、この闇でも見えているのか?」


「分かるのは辛うじて気配だけ。でも、相手はおそらくオムシュエットの暗殺者ですね。向こうに暗闇のハンデはない。二人がかりでも、厳しいかも知れません」


 手探りで、王子の位置を探す。と、その手を強引に掴まれた。


「ち、近寄らないでっ! お願いだから、王子の所へ行かせて!」


「姫さん! 落ち着きな。あたしだ」


「ま、マールさん? 私なんかより、王子を早くッ!」


「王子の方へはアレイザが行った! 大丈夫だ。アレイザは、元々は二番隊にいたんだ。二番隊の者は王子の書と連携を取る為、暗闇でも動ける訓練を受けているって、知っているだろう? きっと王子を助けてくれる!」


「私も、お役に……!」


「行っても邪魔になるだけだ! 今は逃げる事だけに集中しな!」


 暗闇の中、リャコは手を引かれるままに走った。走っても走っても、闇は一向に晴れる事はなかった。

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