1-2
革命から二日が経っても、ノーマンはまだ城にいた。
城内に血は流れていない。
革命が起こったとは思えないほど、ひっそりと静まり返っている。
ここはすでに事後処理さえも終わった場所だ。
悪政を敷いた王は投獄され、城は民に解放された。
城に勤めていた騎士や侍女、料理人や庭師などの人々はみなここを去り、後宮にいた王の側室たちも荷物をまとめて出ていった。
後宮の女性たちは出ていく直前、城を丁寧に掃除したのだと聞いている。
そのため城内には塵一つないほど清潔になっており、建築された当初にもっとも近い状態となっている。
そんな誰もいなくなった城内をノーマンは一人で歩いていた。
ノーマンは王子だった。
ただし、それはもう過去の称号だ。
名前の下には王家の人間であることを示す名字がついていたはずだが、彼はもう口にする機会はないと確信している。
この国で名字を持つのは貴族と王族だけだ。
だから彼は平民と同じく名前しか持たない、ただのノーマンだった。
ノーマンの顔に感情は現れていない。
悲しみも喜びもなく、時計の針をずっと眺めているかのような無表情だった。
その顔がなんの前触れもなく、ぎこちなく動く。
唇を吊り上げたそれは、よくよく観察してみなければ笑っているとは思えない不気味な表情だった。
「わは、わはは」
ノーマンはそのまま不器用な笑い声をあげる。
革命は成された。
最後の王子だったノーマンは、自分が王位を失ったことを心底喜んでいた。
父である王はすでに投獄された後だ。
悪政を敷いた暴虐の王だとノーマンは聞いている。
私腹を肥やすために増税し、国中の美しい女を自らの後宮に召し上げ、民のことを考えなかった。
近年は革命を恐れ、不穏分子の噂を聞けば真偽も確かめずに鎮圧し、虐殺を命じるようなひどい臆病者だったとも聞いている。
ノーマンも実感としていくつかの事実は知っている。
中でも兄弟の多さは目を見張るものがあった。
それぞれ母親の違う兄弟が十五人、王位継承権を巡って争いみな死んだ。
ノーマンは一人として顔を見たことすらない。
彼が城に迎えられたのはそうした争いが凄惨な結果に終わった後だったからだ。
十五人の王位継承者が死んだ後に現れた十六人目。
そういった特殊な立ち位置であったとはいえ、本来ならばノーマンも殺されるのが革命というものだ。
王家の血をひく人間はみな同罪であり、またそうでなくとも仇討ちや王政の復古を避けるためには一族を根絶やしにしたほうがいい。
実際に表向きにはノーマンも死んだと発表されることになっている。
王は投獄され、最後の王子は革命の最中に命を落とした。
だがノーマンはこうして生きている。
革命軍との裏取引により、この後は平民として生きる予定だ。
すべてうまく進んだ。
なのでノーマンは大きな笑い声をあげることにした。
「はーはっ、はっはー」
調子はずれで不自然な笑い声が静かな城内にこだまする。
そのとき、彼に近づいてくる女性がいた。
「ノーマン様、こちらにいらっしゃったんですね」
違和感のある笑い声を聞きつけて現れたのは、侍女のアリエルだった。
ノーマンが生きていることを知っている数少ない人間の一人で、今は彼の出立を手伝うためにここへ残っている。
今年十五になったノーマンよりもいくらか年上で、切れ長の目元には怜悧な光をたたえている。
笑うことが不得手なノーマンとは対象的に、いつも口元に自然な笑みを絶やさない女性だ。
黒いドレスと白いエプロンのコントラストは見慣れたもので、美しい姿勢で足音なく近づいてくるのも普段どおりだ。
そのためノーマンはアリエルの出現に驚かない。
「なにをなさっているんですか?」
「見てわからないのか、笑ってるんだ」
「まったくわかりませんでした。ノーマン様はもう少し表情を豊かにする訓練でもなさったほうがいいのではないでしょうか」
「そこまで言うのなら手本としてアリエルが魅力的に笑ってみせてくれ」
「承知いたしました。侍女の必須技能として習得した笑顔を見せて差し上げましょう」
アリエルは白い手袋をつけた両手で一旦顔を覆い隠す。
「ふっ」
そして手を開くと同時に鼻で笑った。
「こちらが侍女の基本スキル、せせら笑いです」
「それはぼくの求めていた笑い方じゃない」
「残念です。他のものであれば高笑い、苦笑い、思い出し笑いなど多様なラインナップを取り揃えておりますがどれになさいますか?」
「どれも役立ちそうにないな。どうせならもっと今後の生活で役立ちそうな笑顔を教えてくれ」
「失礼ながら、笑顔を戦略的に使うにはノーマン様の顔つきでは厳しいかと。いや、美男子ではないと言っているわけではありませんよ。本当に」
「そういう付け足しはむしろ傷つく」
ノーマンが笑おうとしたのは今後の生活を考えてのことだ。
これまでは王子という立場があったため、不遜に振る舞っていればそれで困ることはなかった。
しかし平民として生きるとなればこのままではいけない。
愛想笑いの一つもできないようでは町に溶け込むことはできないだろう。
それくらいはノーマンにも想像がつく。
「ぼくは笑った経験が少ない。だからこれからは意識的に笑って生きようと思っている」
「鉄面皮のままでおっしゃられても、とは思いますがまぁお好きになさってください」
それよりも、とアリエルは言った。
「こちらの準備は済みましたが、まだ城の中を見て回られますか?」
「いや、もういい。わがままを言って悪かった」
ここを出る前に一度城を見て回りたい、とノーマンが望んだのだ。
そのため出発のタイミングを遅らせてもらった。
すでに装飾過多な服を脱ぎ捨て、用意された質素な衣服に袖を通している。
剣を腰にさし、その上から粗末な外套を羽織れば完成だ。
これで誰もノーマンを王子だとは思わないだろう。
あとはアリエルが用意してくれている、食料や金銭などの荷物を受け取ればどこへでも行くことができる。
「ところで、革命のほうはどうなったんだ?」
「滞りなく進んでおります。ノーマン様のご協力もあって、開城までがとてもスムーズでした」
「ぼくはただ警備を引かせただけだ。さほど需要なことはしていない」
革命の起こったあの日、セオドアと別れたノーマンは門番へと声をかけた。
王子という立場を使えば、城の警備を薄くすることも難しくはない。
「しかしそのおかげで犠牲なく開城が済みました。お約束どおり、あなたの身の安全は保証します。これからは王族ではなく、一人の民として生きてください」
「うむ」
ノーマンは重々しくうなずく。
革命について聞かされたのは侍女であるアリエルからだった。
彼女は革命を目論む勢力が城によこした隠密であり、ノーマンはそんなアリエルを通じて革命軍に協力した。
そしてその見返りとして身の安全を手に入れたのである。
なぜアリエルが自分に正体を打ち明け、協力を求めたのかまではわからない。
しかし革命の話を聞いたとき、ノーマンはほとんど悩むことなく協力することを決めた。
こんなところで死ぬなんてバカげている。
ましてやあんな王のために死ぬ必要なんてない。
それは自分だけではなく城に仕える人たちも同じだとノーマンは考えた。
だから革命の日取りに合わせ、騎士に諸用を言いつけて城の警備を薄くした。
ノーマンがおこなった協力というのはその程度のものだ。
「以前もご説明したとは思いますが、これからのノーマン様は表向きには死んだことになります。もしも生きていることが公になった場合はお父上と同じく投獄されることになるでしょう」
「わかっている」
そしてその先に待っているのは死罪なのだろう。
「じゃあ行こうか。荷物は外に用意してあるんだろう」
「はい。出発するには良い時間でしょう。この時間であれば夜闇に紛れて移動できます」
アリエルは首から提げていた時計で時間を確認すると、それを服の内側に戻した。
頻繁に時計を確認する姿も、アリエルの特徴の一つだとノーマンは思っている。
「しかしその前にもう一箇所だけ立ち寄っていただきたいところがあります」
「それはぼくが行かないといけないところなのか?」
「はい。恐れながらノーマン様のお忘れものです」
「心当たりはないな。アリエルが取ってきてくれればいいだろう」
「それは難しい注文ですね」
「なぜだ? そんなに大きなものなのか」
「ある意味ではとても大きく、重いものです」
「ぼくに持てるかな」
「判断が難しいところですね。それも含めて一度ご確認いただければと考えております」
荷物は最小限にとどめなくてはならない、と聞いていたから剣だけにしたのに忘れものとはどういうことだろう。
ノーマンは自分の持ち物と呼べそうなものを一通り思い浮かべてみる。
絵の具、衣服、書籍などが次々と脳裏をよぎるが、どれもアリエルが運べないという条件には当てはまらない。
そしてこの侍女はこれ以上口頭で説明する気がないようだ。
「わかった。ならそこに立ち寄ってから外に出ることにしよう」
「恐れ入ります」
うやうやしく一礼をしたアリエルについて城の中を歩き回る。
城で暮らしている間、多くの時間をノーマンは自室で過ごしていた。
外に出るのは特別な用事をのぞけば、セオドアとの訓練くらいだ。
また、先ほど一人で城内を散策したときも行ったことがある中庭や図書室くらいしか回っていない。
そのためアリエルに案内された今になって初めて歩く廊下も多かった。
歩いても歩いても終わりの見えない廊下に、あらためて城の広さを思い知る。
今ここの絨毯を踏んでおかねばこの後に踏むことはもう一生ないだろう。
そう思うと、この目的地が不明瞭な寄り道も貴重な体験に思えた。
「さぁ、こちらです」
アリエルが立ち止まったのは城の奥にある重々しい扉の前だった。
「ちょっと待て。城に詳しくないぼくでも、この先にあるのがなにかは知っているぞ」
巨大な王城の中で、多くの人が出入りするのは半分だけだ。
市街に面した前半分に謁見の間も、大広間も、ノーマンの自室もある。
その奥、広大な敷地の後ろ半分へつながるこの扉は大きく、固い。
出入りするものを厳しく制限するためだ。
「城に出入りする人間ならばみんな知ってる。この先にあるのは王の後宮だろう」
女性だけで構成された生活空間、それがこの先に待つ後宮だ。
そこに王以外の男性が立ち入ることは許されていない。
「よくご存知でしたね。そういうことに興味があるお年頃ですか?」
「茶化すんじゃない。ぼくはこんなところに入ったことはないぞ。ましてやこの向こうで生まれたわけでもない」
「でしょうね。他の方々とは生まれが違う、というのは私も存じております」
「だったらわかるだろう。入ったことのない場所に忘れものはできない。それに、もう誰もいないんじゃないのか?」
いつもは出入りを規制するために立っているであろう人影も存在しない。
城は相変わらず静かで、ノーマンとアリエルの話し声だけが響いていた。
「それも中に入れば確認できますよ」
アリエルはそう言って、扉を開ける。
大きな扉は見せかけのもので、右下に鍵付きの出入り口が設置されていた。
いつものことながら、アリエルの考えていることはよくわからない。
笑顔の仮面に隠された彼女の意図は昔から読めなかった。
「仕方ないな」
アリエルの案内がなければ城を抜け出すこともかなわない身だ。
この先に秘密の抜け道が隠されていることに期待して、ノーマンは扉をくぐり後宮へと足を踏み入れる。
軽蔑する父王の生々しい生活空間を歩くことは不快で、ノーマンは鳥肌が立った。
「ところでノーマン様は後宮についてどの程度ご存知なんですか?」
「王がたくさんの女性を侍らせていたこと。そして十五人の子どもを作ったこと。それくらいだ。兄弟のすべてが腹違いだと言うんだから恐れ入る」
「そして全員が亡くなり、十六人目であるノーマン様がお城に召し上げられた」
「そうだ」
十五人の子どもとその母親は王位継承権を巡って、様々な争いをおこなった。
それは表立った対立もあれば、水面下で暗躍するものもあったとノーマンは聞いている。
その結末が全滅だというのだから、まったく笑えない。
あるものは馬車に轢かれ、あるものは高所から落ち、あるものは病に伏せって……という具合に、偶然なのか、悪意によるものなのか、真偽が明確にならないまま次々と王位継承者は死んでいった。
特に流行病によって病死したものは多かったため、呪いという説もある。
このときの王の怒り方は並々ならぬものだったらしく、その怒りは罪のない民に向けられたらしい。
呪術師だと因縁をつけて何人もの薬師を殺し、村を焼いた。
それが革命につながったことは言うまでもないことだろう。
「王はさぞノーマン様を大切になさったでしょうね」
「ロクに会ったこともない人間の感情なんて知らないよ」
顔を合わせている人間の考えだって読めない。
未だになぜアリエルがこんな寄り道を強制してくるのか、ノーマンにはさっぱりだった。
しかし不思議なことがあった。
後宮の奥へと進んでいくうちに、かすかに人の気配がし始めたのだ。
それは人が歩く音だったり、ささやきあう声だったりする。
はっきりと聞き取れるほどのものではないが、たしかに聞こえる。
「もしかして、まだ誰かいるのか?」
「さて、どうでしょうか。どうぞご自身の目でご覧になってください」
アリエルが正面に現れた両開きの扉を開け放つ。
そのときノーマンはなにも言葉が出てこなかった。
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