4-4

 その夜、ノーマンはひどい夢を見た。


 それは自分が殺される夢だった。

 刃物を持った女に襲われ、胸に深々と刃を突き刺される。

 夢の中でも激痛が走り、混乱に陥った。


 そのため飛び起きた後も夢と現実の区別がつかず、しばらくは混乱してしまう。



「……オベロンのせいだな」



 荒い呼吸がようやく落ち着いたノーマンはそうつぶやいて、寝汗に濡れた髪をかきあげた。


 なにかを考えながら眠るのは良くない。

 特に不安や心配を抱えていると、それが夢の中にあらわれてくる。


 寝るときはできるだけリラックスしてなにも考えないようにするのがいい。

 昨夜もそうできればよかったのだが、できないままだった。


 はぁ、と大きく息を吐く。


 耳をすましてみても屋敷の中から生活している音は聞こえない。

 窓の外はまだ薄暗いため、少女たちは寝ているのだろう。


 かすかに日の光はあるが、まだ朝というには早い時間だ。


 もう一度眠ることも考えたが、ノーマンは寝床から出るほうを選んだ。

 夢の続きを見てしまうと恐ろしいし、早鐘を打つ心臓と服にしみこんだ汗がうっとうしくもあった。


 熱い湯でも浴びることができれば最高だが、朝から湯を沸かす手間は惜しい。

 そのためノーマンは川で直接水浴びすることにした。

 目を覚ます効果は十分に期待できる。


 屋敷を出て、ひんやりとした空気の中を川に向かって歩く。

 木々の隙間を通って進んでいると、鳥のさえずりと自分の足音だけでなく次第に水の流れる音が聞こえ始める。


 どうやら先客がいるようだと気づいたのは、川辺の様子がかすかに見えてからだった。


 まず目に止まったのは綺麗にたたまれた服だった。

 滝のそばにシートが敷いてあり、その上に衣服が一式たたんで置いてある。

 下着も含まれた、女性のものだった。

 その一番上には見覚えのある時計がある。


 それをしげしげと確認する前に、鋭い風切り音が耳の横を通り抜けた。



「いぃっ……!」



 一瞬のあと、背後の木には刃が突き刺さっていた。

 細く鋭い刃物だ。


 夢の影響もあって、ノーマンは青ざめた。



「おや、ノーマン様でしたか」



 せせらぎの隙間から女の声が聞こえる。


 まだ警戒心のにじんでいるそれは、アリエルの声だ。

 おそらくたたまれた衣服は彼女のものなのだろう。


 時計にも見覚えがあって当然だ。

 アリエルが普段から身につけているものだろう。


 相手がアリエルだとわかって、ノーマンは安堵する。



「いきなり物騒なものを投げつけてくるんじゃない」


「不審者かと思ったもので。二撃目の前にノーマン様だとわかって良かったです。うっかり主の眉間に刃を刺してしまうところでした」



 貴族から送り込まれた隠密だということを知ってはいたが、こうして暗器を使っているのを見るのは初めてのことだった。

 さすがにこれは侍女の基本的な技能ではなく、アリエル特有のものだろう。


 アリエルの姿はまだ見えない。

 意図的に隠れているのだろう。



「ずいぶんお早いお目覚めですね」


「悪い夢を見た。水浴びがしたい」


「申し訳ありません。すぐに終わらせますので、しばらくお待ちください」


「別にぼくが行っても不都合はないだろう」


「使用人としてお見苦しい姿を見せたくはありません。すぐに出ますのでそれまではご容赦ください」


「む」



 アリエルがこのようなことを言うのは珍しい。

 いつも完璧で、白と黒の衣服をまとった姿と涼しげな笑顔で皮肉を言うのがあの侍女だ。

 その彼女が今は少しだけ焦ったような声を出している。


 これでは興味をそそられないほうがウソというものだろう。

 ノーマンの中でむくむくといたずら心が育っていく。



「嫌だ」


「そんな子どものようなことを」


「子どもで結構。お前の動揺しているところを見られるのは貴重だからな。そっちに行くぞ」


「私の身体を見られたくありません」


「恥じらいがあるとは意外だ。なおさらぼくは見たい。なんなら背中くらいは流してくれ」


「はっきりとおっしゃる。欲情されているんですか?」


「隠されると見たくなるものだ」


「従順な侍女のお願いをたまには聞いてくださってもいいと思いますが」


「普段はよく聞いているつもりだ。けど今はお前のあられもない姿を拝むことしか眼中にない」


「……どうしてもですか?」



 アリエルの声音が変わる。

 焦りと警戒が消え、諦めのようなにじみ始めていた。

 もうひと押しだろう。



「どうしてもだ」



 ノーマンが言い切ると、小さなため息が聞こえた。



「わかりました。もし倒れたら介抱して差し上げます」


「見くびるなよ、アリエル。ぼくが人の裸を見たくらいで倒れるはずがないだろう」


「どうでしょうね」



 許可が出たのでノーマンは歩みを再開する。

 アリエルの着替えのそばを通り抜けて、視線を川へと向けた。


 白い女体がそこにあった。


 こちらには背を向けているが、あの後ろ姿はアリエルだろう。

 くびれた腰と大きめの臀部に目を奪われる。


 しかし同時に彼女の左半身に違和感を覚えた。


 最初は見間違いかとも思ったが、たしかに見慣れない痕があり、変色していた。

 それは左足から這い上がるように、尻、腰、腕とのびて首元まで続いている。


 皮膚の下に蛇でもいるかのように不規則な盛り上がりを作ったそれが火傷痕だと、ノーマンが気づくのには時間がかかった。



「だから言ったのに」



 アリエルが小さな声でつぶやいた。



「お見苦しい姿を見せてしまいました。すぐに隠しますのでご容赦ください。それでも不気味だとおっしゃるならお暇を出してくださいませ」


「そうか、では予定通り背中を流してもらおう」


「は?」



 珍しくアリエルが素っ頓狂な声を出して振り返る頃には、すでにノーマンは服を脱ぎ捨てて川に足を踏み入れていた。



「なにか他の反応はないんですか?」


「驚いた」


「それだけですか?」


「それだけだ。他に言うこともないだろう。ぼくが気にするなと言うのも変だし、お前の裸がどうだろうとそれでこれまでやってきてくれたことの評価が変わるわけでもない」


「これまで美しいものしか見てこなかった人には、刺激が強いかと思っていました」


「ずいぶん買いかぶってくれるんだな。どうしても感想が欲しいというのなら、そうだな、恥じらうアリエルの姿は中々に刺激的だった」


「意地が悪いですね」


「どうだろうな」



 ザブザブと水をかきわけ、アリエルに近づく。

 衣服をまとっていないせいか、アリエルの背丈が普段よりも小さく感じた。



「気にするなとは言わない。お前が不安ならこれまで通り隠していればいい。ただぼくの前では隠すな」


「どうしてですか?」


「たまにはしおらしいアリエルも見ていたい」


「二度と見せません」


「半分冗談だ」


「半分本気なところが不満です」


「それを言うならぼくにも不満がある。ぼくがお前の裸を見ただけで態度を変えるような、そんな器の小さい人間だと思われていたことだ」



 ノーマンはアリエルの腕を取って引き寄せる。

 そうして至近距離から彼女の瞳を見つめて言った。

 長いまつげに縁取られた藍色の目を、ノーマンは綺麗だと感じた。



「もっとぼくを評価しろ」


「……はい」



 でも、と耳元でアリエルはささやく。



「私にはまだ隠し事があります」


「別にいい。今さらお前がなにをどれだけ隠していようとガタガタ言うつもりはない」


「ずいぶん寛大なんですね」


「わかっていないようだから、このさいはっきり言っておく。ぼくはお前にとても感謝してるんだ」



 ノーマンは恥ずかしさをごまかすために、アリエルを抱きしめる力を強くした。


 これはとても顔を合わせて言えることじゃない。

 それが伝わっているのか、アリエルは無抵抗でいた。



「お前がいたから、ぼくは自由になれた。お前がいてくれるから、ぼくは今も生きていられる。だから感謝してる」


「もったいないお言葉です」


「わかったならお前も少しはぼくを信用しろ」



 言いたいことを言い終わったノーマンが身体を離そうとすると、アリエルの腕が背中に回された。



「それではノーマン様、一つだけ従順な侍女の願いを聞いていただけますか?」


「なんだ」


「もう少しだけ私に触れていてください」


「ああ、別に構わない。今さらだけど、痛くないのか?」



 ノーマンが抱きしめている都合上、彼女の火傷痕にも手が触れている。



「痛くはないです。それに多少は痛くても構いません」


「そうか」



 ノーマンにはアリエルの感情を想像することしかできない。

 抱き合ったままではお互いの表情すら見えないからだ。


 しかし火傷痕を見られたとき、ノーマンになんと言われるかという不安があったのではないかと想像する。

 誰かに心無い言葉を浴びせられた経験もあるのかもしれない。


 そういったものが、このか細い身体を震わせているのだと思った。



「なら朝日がのぼりきるまではこうしていよう」



 ノーマンはできるだけ明るくそう言って、アリエルを抱きしめた。

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