4-3
レクリエーションが終わり、後片付けも済んだ後。
二階に数ある寝室の中でも、ノーマンのものは階段からもっとも遠い場所にある。
出入りにかかる歩数は多いが、それくらいのことで文句を言うつもりはなかった。
ほとんどの少女たちが相部屋で過ごしている中、一人部屋を与えられているだけで十分だろう。
「ねむ」
夜になって、ノーマンはあくびを噛み殺して自室に向かう。
今日の敗北を反省し、川辺でいつもより長めの鍛錬をしていたらすっかり遅い時間になってしまった。
すでにほとんどの少女は寝静まった後なのか、屋敷は昼間の喧騒を忘れたかのように静まり返っている。
自室の扉を開け、中に入る。
屋敷で暮らす期間も二ヶ月目に差し掛かり、この部屋で寝起きすることにもすっかり慣れた。
今では家具やベッドの位置も把握したため、目をつぶっていてもベッドにもぐりこむことができる。
そんなことを考えながらロクに自室を確かめもせずにベッドへ入る。
すると、目が合った。
「お待ちしてました」
「ぬぁっ!」
驚きのあまりノーマンはのけぞり、そのままベッドから後ろ向きに転がり落ちる。
「大丈夫ですか、ノーマンさん」
楽しげな笑みと共にベッドの上から手を差し伸べてくるのはオベロンだった。
ノーマンは後頭部を打ち付けたままの姿勢で尋ねる。
「なぜここに……もしかして部屋を間違えましたか?」
「それは私が? それともあなたが?」
「どっちでもいいです」
「誰もなにも間違えてませんよ。さぁ、上がってきてください」
「は、はぁ……」
間違っていないということは、ここはやはりノーマンの部屋なのだろう。
そもそも廊下の突き当たりにあるこの部屋に間違えて入ることは難しいはずだ。
であればオベロンは意図的にノーマンの部屋にいたことになる。
彼女の意図が読めないままだったが、とりあえずノーマンは身体を起こし、ベッドへと這い上がった。
そのときになってようやくオベロンの姿が目に入る。
寝巻き姿の彼女を見るのは初めてだが、薄い桃色の布は透けていて彼女の裸体を薄く透過させていた。
ノーマンの全身に血が駆け巡る。
生理的な興奮と共に、おそらくは恐怖による冷や汗がにじんだ。
さすがにここまできて意図がまったく読めないというほど、ノーマンはとぼけているつもりはなかった。
「本当はノーマンさんが眠った頃を見計らって来ようかと思っていたんですけど、私夜更かしって苦手で。それに搦手を使うのも苦手なんです」
「それで真っ向勝負ですか」
「はい。夜這いに来ました」
屈託のない微笑みと共に、あられもないことを言い切った。
「普通は立場が逆なのでは?」
「では夜這いに来てくれますか?」
「行きません」
「でしょう? なら性別や立場にこだわっている場合ではありません」
「何度も言うようですが、ぼくはもう王子ではないし、ここは後宮ではない。あなたが夜這いをかけるような理由がないでしょう」
「たしかにノーマンさんはもう王子ではありません。それでも高貴な血筋であることは変わっていませんよ」
「母は平民です」
「お父上は王です。それは革命が起こっても、今後あなたがどう生きようと変わらない事実ですよね?」
ノーマンは言葉に詰まってしまう。
認めたくはないことだが、オベロンの言うことは間違っていない。
どれだけ否定しようと、王位継承権を失っても、ノーマンが王家の血を引いている事実は変えられない。
いくら母の子どもであることを強調しても、半分は王族の血が流れている。
「かわいい人。まるで心が幼いまま身体だけ大きくなったよう」
オベロンはノーマンの胸にそっと手を添える。
心臓に触れるかのような、なまめかしい手つきだった。
「私はあなたの子どもが欲しいのです」
「本気で言ってるんですか?」
「いけません?」
「あなたのお立場でぼくと結婚することは難しいでしょう」
女性は爵位を継ぐことはできない。
革命後、この国の制度がどの程度変わるのかはわからないがこれまでの通例から言えばオベロンはどこかの貴族と婚姻を結ぶことになる。
もしもノーマンが王子のままであれば問題なく婚姻を成立させられた。
だが今はもう違う。
ノーマンは立場上すでに死んだ人間だ。
貴族と結ばれることはありえない。
「私、実は誰とも結婚するつもりはないんですよ」
無邪気な笑顔で、オベロンはきっぱりと言い切った。
「だって貴族の娘に生まれたというだけで、将来が決められているのっておかしいと思いません? 革命が起こったんですもの。男も女も、貴族も平民も、もっと自由に生きていいと思うんです」
それはノーマンが初めて触れる価値観だった。
生まれによって将来が決まっているのは自然なことだ。
貴族の息子は家督を継ぐ。
娘は政略のために嫁に出される。
平民も基本的には親の家業を継ぐ。
それを個人の裁量で決められるようにするべきだ、とオベロンは言っている。
身分も性別も超えて、自由に。
ひどく先鋭的な考え方だ。
そのためとっさには飲み込めない。
やはりこの女性は底知れない、とノーマンは身震いした。
おそらくは恐怖で。
「でもあなたは貴族の令嬢だ。ぼくが王子だったことと同様にその事実も変えられない」
「それはどうとでもなります」
「どうやって? たとえぼくとあなたが駆け落ちをしたとしても、シドゥス家からの追手に怯えて暮らすことになるだけではないですか」
「あら、駆け落ちしてくださるんですか? 嬉しいです」
「もののたとえです」
「やりようはあると思いますわ。現にあなたという成功例がここにいるんですもの」
たしかにノーマンは世間を欺いて生きている。
だがあれは革命の混乱があったから成功したようなもので、同じことをそのままもう一度やれるとは思えなかった。
「私、珍しいものに目がないんです」
オベロンは唐突にそんなことを言った。
「家が立派だと大抵のものは手に入ってしまう。でも、そんな家の力を利用してもめったに手に入らない珍しいもの、自分だけしか持っていないなにかが手に入るなら、それってステキなことだと思いません?」
「それがぼくですか?」
「あなたでもあるし、あなたとの子どもでもあります。亡き王家の血を引く我が子なんて、想像しただけで愛おしい」
本当に想像したのか、オベロンは足をバタバタさせて悶えた。
はしゃいでいるのかもしれない。
「もちろん、ノーマン様にもメリットがあるように考えてみました。私に子どもを授けてくださるのなら、あなたに自由をプレゼントします」
「それはつまり……」
「ええ、この屋敷にいる女性たちの働き口を私が用意いたします」
これがオベロンの切り札なのだとノーマンは直感する。
「もちろん革命後でなにかとバタバタしているのは我が家も同じですが、多少は無理をすれば侍女の雇用を増やすことはできます」
「それで屋敷にいる彼女たちを全員受け入れてくれると?」
「はい。もちろんきちんとした待遇で迎えることを約束いたしますよ。猫のマブや、人形のロザリンドさんも例外なく丁重に扱います」
つまりノーマンが女性たちの行き先を探す必要はなくなる。
そうすればここを離れることもできるし、母を探すこともできる。
本当の意味での自由だ。
オベロンは最初からそうすることもできた。
革命直後の段階で、後宮に残った少女たちへ仕事を用意することも本当はできていたのだろう。
しかしそれではノーマンを、ひいては王家の血をひく我が子を手に入れることができない。
だから少女たちに対して責任を取るよう仕向けた。
そして屋敷と金銭だけを与えるという形で援助をするだけにとどめてきた。
そうすれば、いずれノーマンのほうからオベロンに泣きつくと考えていたのかもしれない。
しかしそうなることはなく二ヶ月が経ち、彼女は待っていることに飽きてしまったのだろう。
そしてこの夜這いだ。
「いけませんね、夜伽の前にしゃべりすぎました。こういうときに言葉は不要だと、聞いたことがあります」
オベロンは距離を詰めると、ノーマンにキスをした。
彼女の白い手がノーマンの背中に回される。
その手から熱いくらいの体温が伝わってくる。
言動や雰囲気に似合わないぎこちない口づけだと、ノーマンは感じた。
不慣れであることがよくわかる。
ノーマンはできるだけ丁寧な手つきでオベロンの肩を掴むと、ゆっくりと身体を押して離した。
「やめてください」
「どうして?」
「あなたには感謝しています。家も金も与えてもらっている。あなたがいなければぼくはなにもできないでしょう。さっきの提案も魅力的だ。しかしその代わりに血をよこせと言うなら、ぼくは今すぐにでも出ていきます」
「私を抱くのがそんなにお嫌ですか?」
「この状況では好ましくはないでしょう」
オベロンの笑みが消える。
笑顔ではない彼女の表情を見るのは初めてだ。
しかしノーマンは構わずに続けた。
「王が無責任に母を犯したことでぼくが生まれました。だから自分が責任を取れない形で、責任を取れない相手を孕ませたくはない」
ノーマンは母の顔を思い浮かべようとする。
しかし記憶の奥底に沈んでしまったせいか、おぼろげな影しか思い浮かばなかった。
「それに、子どもは祝福されて生まれるべきだ。すべての人に認めてもらうのは難しくとも、せめて母親と父親からは祝福されて生まれるべきだ。ぼくは今、あなたとの子どもを祝福できない」
オベロンは黙って、ノーマンの目を見ていた。
ノーマンもまたその瞳を見つめ返して、感情を読み取ろうとする。
しかしオベロンの感じていることはなにひとつわからない。
やがてオベロンのほうが先に動いた。
「ちょっと意外でした」
「節操がないように見えていましたか?」
「どうでしょう。でもあなたのことを前より好きになりました。夜這いしてみるのも悪くないですね」
「ぼくの言ったこと、聞いてました?」
「はい。ごめんなさい。私、欲しいものがあるとどうしてもすぐに飛びついてしまうんです。はしたないですよね」
自嘲的な言葉をこぼし、オベロンは立ち上がる。
なぜか自分の言葉が足りないような気がして、ノーマンはにわかに付け加える。
「本当に感謝はしています。だからこそ、これも恩返しのつもりです。決してあなたに魅力がないとか、好意がないとか、そういうことではありません」
「それを聞いて安心しました。次はまた準備を整えて夜這いにきますね」
「えぇー……」
どうやら諦めたわけではないようだ。
「だって、どうしてもあなたが欲しいんですもの」
「欲しいのは王家の血でしょう?」
「いいえ、あなたも含めてです。普段の不器用なところも、その仏頂面も、そして今日見た勇ましいところも、ついつい欲しくなるくらい魅力的ですよ」
褒められているのだろうか。ノーマンには判断できない。
しかしこの二ヶ月は、オベロンがノーマンを見定める期間でもあったようだ。
そして幸か不幸か、彼女に気に入られたようでもある。
もしもオベロンがノーマンに見切りをつけるようなことがあれば、どうなっていただろうかと想像する。
多分、ノーマンが王子であることがどこかにバレ、投獄されていたに違いない。
オベロンが笑顔のままそういうことができる女性なのだと、ノーマンはすでに知っている。
ノーマンは、自分がどこまでいってもオベロンの掌中であることに、今さらのように気がついた。
ふふふ、とオベロンは謎めいた笑みを浮かべたまま扉へと向かう。
「ノーマンさん、今はわたしのものになってくれなくても構いません。でも他の誰かのものにもならないでくださいね」
そう言って、オベロンは出て行った。
扉が閉じたあと、部屋には夜の静寂が降りてくる。
一人になったノーマンは脱力してベッドに寝転がる。
そこにはまだ自分のものではない体温が残っていて、それが不思議と心地よかった。
疲労感はあったが、神経が高ぶっているためとても眠気は感じない。
「……寝よう」
ノーマンは自分に暗示をかけるようにつぶやくと、まぶたを閉じる。
それでも中々眠ることはできず、何度かしかめっ面で寝返りを繰り返していた。
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