第六章 母と就職

6-1

 ノーマンは岬にいた。


 古い記憶だ。

 城で過ごした長居時間によって薄められ、塗りつぶされた思い出。


 覚えているのは雨漏りのひどい家だったこと。

 そして潮風のにおいがしたこと。


 それらの記憶が鮮明なことに比べると、一緒に暮らしていた母のことはおぼろげにしか覚えていない。

 だからノーマンは城で見た女神と天使の絵を参考にしてイメージを作り上げている。

 半ば捏造のような記憶だ。


 聖女のように微笑む母を見上げる自分はとても幼かった。

 母には身寄りもなく、繕い物をしてお金を稼いでいたと思う。


 覚えていないことばかりだ。


 母はどんな声だったのか、自分はどんな話を母としていたのか。

 食べたものも、着ていた洋服も思い出せない。


 あの古い家で過ごした最後の記憶は、綺麗な身なりの女性と厳しい表情の騎士たちが突然やってきたこと。


 そして自分だけが馬車にのせられて、家を去ることになったこと。


 あのとき自分が泣いたのかどうかも、母がどんな表情をしていたのかも思い出せない。


 城に召し上げられてから、ノーマンは空腹による飢えを感じたことはなかった。

 隙間風による寒さも、厳しい暑さによる喉の渇きも感じることはなかった。


 それでもなにかが足りない。


 それが母の存在であることに気づくのには時間がかかったし、そこから自分の境遇を知るまではさらに時間がかかった。


 そして自分と母を引き離した王に対して、革命に協力するという形で復讐を果たすまでには、もっと長い時間がかかった。



 ***



 ノーマンたちが暮らす屋敷の空気はどこか寒々しいものになっていた。


 ここで暮らす女性が一人減るたびに、ノーマンは屋敷がひどく広くなるようなそんな錯覚に見舞われる。


 クレシダはチタニアの台所仕事を多少手伝っていただけなので、彼女がいなくなっても屋敷の生活自体に大きな影響はなかった。

 むしろ盗み食いがなくなり、食材の計算が楽になったとチタニアは言っていた。


 だが、そういう実利的な面ではない影響が出ている。


 人一倍賑やかだったクレシダがいなくなったことによって屋敷は以前よりもずっと静かになってしまった。


 音が少ないことは寒さにつながっている。

 革命が終わって三ヶ月以上が経ち、季節も冬へと移り変わろうとしていた。



「ノーマン」



 屋敷の一室で、ロザリンドの髪をといていたノーマンは声をかけられて視線を下に向ける。

 足元にはウルリがしがみついていた。



「ロザリンドとなにしてるの?」


「髪の手入れだ。さっきデモナに頼まれた。普段はあいつがやっているらしいな」



 夜空の星々とさえ交信できるデモナであれば、人形であるロザリンドと対等に会話ができても不思議ではない。

 そのデモナは今、無口なセティの手伝いで衣類の洗濯をしているようだ。


 櫛を使って髪をとかすと時間がゆっくり流れるような気がする。



「ノーマン、なんだか元気ないね。寂しいの?」


「いや、そうじゃないよ」



 まったく寂しくないというわけではないが屋敷にはまだ多くの人が暮らしている。

 それにこの屋敷を出て行くことはいいことだ。


 ノーマンの気分が晴れない原因は、セオドアのことが原因だった。


 ロザリンドの髪に触れながら、ノーマンはそのときのことを思い返す。


 数日前、クレシダの就職が決まったあの夜。


 反乱を企てるセオドアの言葉を、ノーマンはそれ以上聞いていられなかった。

 かつて共に過ごした思い出が汚れていくような気がして、思わず席を立つ。



「今のは聞かなかったことにする」


「なぜですか、殿下」


「革命によってすべての国民が救われたわけじゃないということはわかった。お前がここにぼくを連れてきたのも、それを実際に見せるためだったんだろう。だからといってぼくが王になる気はない。ましてや反乱なんて……」


「現実的ではない、ですか? しかし革命は起こりました。あれも現実的ではない」


「それだけじゃない。ぼくもこれまでのような絶対王政には賛同できないんだ」


「それは殿下が王に対して嫌悪感を持っていたからではないでしょうか。民主主義など、実態はただの人気投票でしかない。あれが正しい政治だとは自分には思えません」


「投票のデメリットはぼくも理解はしているつもりだ」



 多数決による統治者の決定にはセオドアの指摘するような問題がある。


 一つは選ぶ人間の能力差を考慮していないことだ。


 政治に詳しい有識者の票も、無学な人間の票も平等に扱う。

 能力差を無視した平等は悪平等である、という指摘を免れることはできない。


 もう一つは候補者の能力以外の要素が重視されがちだということになる。

 政治的な能力ではなく、人柄を重視した投票になってしまう危険があるのだ。


 それでは政治が立ち行かなくなる、というセオドアの懸念にはノーマンにも同意できる部分がないわけではない。



「教養のない一般人が人気だけで国の支配者を決めたところで、うまくいくはずがありません」


「しかし今さらぼくが生きていたというのも無責任だろう」


「貧困にあえぐ民を知りつつ立ち上がらないことのほうが不誠実とも考えられます。あなたには力がある。いつまでもあのような生活の中に埋もれているべきではないのです」


「それは……」



 いつの間にか屋敷での生活に心地よさを感じていた。

 だからこそ、ノーマンはセオドアの言葉に反論することができない。



「そもそも殿下は王となるべくして生きてきたはずです。それが今さら平民としてうまく生きられるのですか?」



 うまくやれている、と虚勢を張ることはできる。

 だがその言葉がウソであることは自分が一番よく知ってしまっていた。


 屋敷での家事に貢献できないのはもちろんのこと、少女たちの就職活動でも目立った成果をあげられてはいない。

 コーディリアは結局自分で交渉していたし、クレシダに関してもセオドアの口利きと彼女自身の活躍によるものだった。


 ノーマンはどちらも必要な資金を支払うために同行していただけだ。

 その資金すらもオベロンから授かった人のものである。


 責任を取ると言っておきながら、ノーマンはなにひとつできていなかった。



「出過ぎた発言の数々、お許しください」



 セオドアはノーマンの返答を待たずに頭を垂れる。



「いかなる処罰も受ける所存です」


「いや、そんなつもりはない」



 なんとかノーマンはそう言って扉に向かう。



「今日は帰らせてくれ。色々あって疲れた」


「気遣いができず申し訳ございません。屋敷までお送りいたします」


「いい。一人で帰れる」


「わかりました。自分はこの都で同志たちと準備を整えておきます。殿下のお心が決まり次第、決行できるように」



 その言葉を一笑に付すことも、かといって受け入れることもできず、ノーマンは無言のまま立ち去った。


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