第16話 世界の祝福

 朝戸風あさとかぜが運んでくる甘やかな花の香り。心地のよい一日の始まりを感じながら、ヒウノは宿の受付近くの広間で少女を待っていた。すぐそばで、両親とおかみさんが談笑している。


「みんな、お待たせ」


 みなに得意げな笑みを向けるシズ。ともにやってきたリトは、自身が注目を浴びているのに気づき、はにかんでうつむいた。下ろし立ての洋服に着替えた彼女の登場に、場が華やぐ。

 細く絞られたハイウェストは女性らしい曲線を強調し、ひだが少なくふんわりと広がるロングスカートのブルーが目を引く。胸元にさりげなくフリルのあしらわれたブラウスは上品で、ほどよく体にフィットし純白の下にうっすらと彼女のボディラインを見せていた。深く鮮やかな青と無垢むくな白。まるで空を思わせるコーディネートである。


「きれいよ、リトちゃん。あたしの妹じゃ、こうは着こなせないわ」

「ありがとうございます。わたし、こんなに素敵なお洋服を着たのは初めてです。気持ちがふわふわして。でも、本当にいいんですか? シィちゃん、でしたっけ。妹さんのものなのに」

「いいのいいの。それより──」


 シズはあからさまな視線をヒウノに向けた。目は口ほどにものを言う。実にわかりやすく「褒めなさい」と訴えかけている。そんな彼女の思いをよそに、少年は至って平静に応えた。


「サイズはぴったりみたいだね。よく似合っている」

「ふふっ、ありがとう。ブーツはヒウノのものを借りたままでもいい? とっても歩きやすくて。このお洋服にも合っていると思うの」


 足元を見るリトの肩から、まっすぐにおろしたつやのある髪が流れ落ちる。栗毛色のそれを慣れた手つきで背に払い、少年の言葉を待つ。ヒウノは短く「いいよ」と頷き、少女は素直に喜びをあらわした。

 思春期の男女らしい異性への意識を期待したぶん、シズはやや呆れ顔である。しかし彼女は、ある変化を目にしてふっと息を吐いた。


(ヒュー君がこんなに心を許すなんて。おじさまへの憧れで背伸びしすぎていたから、安心したわ)


 シズはヒウノの父親と短く会話し、ひと足先に船着場へと向かった。



 *



「出発までまだ時間はあるけれど、あなたたち、忘れ物はない?」


 旅立ちを前にしたふたりの子どもを、少年の母親が気遣きづかった。ヒウノとリトの声が息ぴったりに「はい」と応える。大丈夫そうね、と安堵した母は、心なしか後ろめたそうにしている少女に気がついた。よく使い込まれ、おもむきのある小さな革製のバッグを、身につけず遠慮がちに両手で持っている。リトはおずおずと口を開いた。


「おばさま、これ──やっぱりお返しします。ひとつだけ残った、大切な思い出の品なのに」


 一方、母親の口調はすっきりとして明るい。


「だからよ。リトちゃんに出会えたおかげで、すべてが燃えずに済んだわ。あなたに持っていって欲しいの。そうしたら、思い出はもっと輝くから。いつか、一緒にわたしのところへ帰ってらっしゃい」

「お母さま……」

「この子をお願いね。よい旅を」


 ふたりが交わした抱擁ほうようは、実の親子と見紛みまがうばかりの愛情に溢れている。リトの目の端に浮かんだ小さな光の粒を見て、少年の心はたとえようのない幸せに満たされるのだった。



 *



 船着場でシズと合流したヒウノとリトは、屋根のないタラップをのぼり船に乗り込んだ。爽やかに吹き抜ける潮風とさざめく波。陽光が穏やかに射し、蒼空には雲ひとつない。少女は自身の出立しゅったつがまるで世界に祝福されているように感じ、澄み渡った空にも負けないくらいの晴れ晴れとした表情で、大きく息を吸い込んだ。


「あ、そうだ」


 ふと思い立ち、リトはバッグから何やら取り出した。


「みんなからたくさんのものをもらったわ。でも、わたしばっかりではいけないわよね。ヒウノにも分けてあげる」


 彼女の手には祭儀用とおぼしき小刀があった。簡素なこしらえで、真っ白な柄と鞘の境目にはわずかなずれもない。少女の柔和にゅうわな表情が「ほら」と促す。


「ありがとう」


 短く礼を言い受け取ったヒウノは、刀身を確かめようと鞘を引く。しかし、なぜか抜けない。力を込めて何度か試すが、びくともしなかった。その様子が可笑しいリトは「お守りみたいなものだから」と少年の手を握り、そっとおさえとどめる。

 ヒウノは小刀を腰の後ろに差し、少女を連れ立って船のへりに向かった。見送る両親に手を振っていると、船体がゆるやかに離岸し始める。風を受けて帆が張り、リトは感嘆の声をあげた。


「あの子も見たのかしら。はしゃいだはずだわ、きっと」


 極めて順調な航海。波に揺られ太陽の位置が正午を告げるころ、ふたりを乗せた船は中央大陸へと到着した。



 第16話 終

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