第13話 その手をはなすときは

 ヒウノは大樹の枝の端に立ち、はるか眼下に船の姿を認めた。熱を帯びた風が吹き上げ、髪があおられる。


「これなら、うまくいくかもしれない」


 短く言うと、幹にもたれかかる母のもとへ向かい、手を差し伸べる。


「じきにこの木にも火がうつります。行きましょう」


 彼女は少年の手を取ると、おそるおそる歩き始めた。下を気にせずに済むよう、目の前にいる子だけをまっすぐに見て。ヒウノが動きを止めると、ゆっくりと身を寄せる。彼の体だけが支えであり、それを失えばどうなるかは想像に難くない。


「本当を言うとね、今すぐにでもこの手をはなしたいの。そうすれば、ずっと楽になるでしょう」


 ヒウノの髪が、風を受けてざわりと揺れた。自身の首にまわされた母親の腕に、左の手を添える。力を込めて握らず、けれど、決してはなれないように。


「でも、そんなことをしたら追いかけてきちゃうわよね。だからお母さんも決めたわ。あなたたちと生きたい。町に着いたら、あなたもあの人も、うんと叱ってあげるから」


 強張こわばっていた少年の表情が、いくぶんか和らいだ。その変化を目にした彼女が、子どもを怖がらせようとたわむれに囁く。


「お父さんから、空に近づいちゃいけないって聞いているわ。言い伝えって、あながち嘘をついていないのよ?」

「神さまがいたら、きっと大目に見てくれます。父さんに合図を送りますね」


 ヒウノは腰に下げた小刀を抜き、手近にある細い枝を切った。泉に狙いを定め、投げ落とす。


(雲の高さまで上がるわけじゃないんだ。きっと大丈夫)


 母を安心させようと答えたものの、少年の心に不安が広がる。昼間、リトに伝えた説話には、不吉な一節いっせつが続く。


『だが、忘れてはならない。人が再び空へ逃れれば、雲のおりは崩れ、罪の記憶が砂をともなって現れるであろう。しずめの雪が降り止むとき、子は眠りより覚め、親のすべてを滅さん』


 人が空に自由を求めてはならない。災いが目を覚まし、大地に滅びがもたらされる。それは、幼子おさなごに読み聞かせるおとぎ話。けれども、信じているのは子どもだけではない。白い砂の海とそこに横たわる飛行機械の残骸が、大人をも頷かせているのである。少年と父も例外ではなかった。翼を持つ船で高空を舞えば、厄災が起こらないとは言い切れない。今まさに、自分たちがその引き金に手をかけているかもしれないのだ。


(父さんだって、わかっていて──)


 このときヒウノは、ひとつの過ちを犯す。脱出の他に意識をやってよい場面でないのを、ほんのわずかといえ忘れてしまった。

 背後から乱暴に体を引っ張られる。少年が自身のいた位置を見ると、大木の枝が砕け散っていた。その一片が頬をかする。猛然と上昇してきた船体が、目と鼻の先をすぎてゆく。

 注意されたタイミングを完全に逃した。船から身を乗り出す父の姿が、みるみる遠ざかる。悔しさに握られた拳が震え、ヒウノは絶望に硬直する自身を呪わずにはいられなかった。

 ふいにその手を、温かな感触が包み込む。


「いいの。よくがんばったわね。いつまでも、あなたを愛している」


 母の優しさに少年の瞳から涙があふれた。同時に、体の奥底から力がわきあがる。ヒウノは輝く石の宿る利き腕を振り上げ、天を掴まんばかりにのばす。彼女の手がはなれないと信じて。


(届け──!)


 少年の右手から放たれた光が、矢のように鋭くはしる。空気を裂く音が甲高く響き、それは凄まじい速度で飛行機械の翼部を貫いて、確かな手応えをもって止まった。ヒウノが腕を引くと、瞬く間に夜空が近づく。下降し始めた船を体が追い抜き、少年はまるで宙を泳ぐような格好になる。背にある母の温もりに安堵している余裕などなかった。


「母さん、下を!」


 ちょうど真下に後部席が見えた。少年の声を受けた母は、躊躇ちゅうちょなく我が子から手をはなす。父が受け止めるのだ、彼女の無事にいささかの疑いもない。ヒウノは母の姿を見ないまま、右腕をぐんと引いた。光紐こうちゅうは瞬時に縮み、少年を船体へと導いてゆく。彼が着地すると、ぐらりと大きな揺れに襲われる。かしいだ翼の上をヒウノは疾風はやてのように駆け、操縦席へ飛び込んだ。エンジンを始動し、速力を上げるためのレバーに手をかける。顔をあげると、眼前には樹木が黒々と立ちはだかっていた。


(僕が遅れたせいだ。それでも──)


 少年が迷いを振り切ったそのとき、突如、火をまとった上昇気流が生じ、船体を呑み込んだ。呼吸もままならない熱気の中、ヒウノがうっすら目を開くと、前方を遮るものは何ひとつなかった。力を振り絞り、左手をかけていたレバーを前へ倒す。三人が乗った船は耳障りなきしみとともに進み、やがて森を脱するのだった。



 第13話 終

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