第12話 温かな心
炎が迫る。
少年の父と母は身ひとつで、何かしらの品を持ち出してはいなかった。森に移り住んで十数年、家族で作った思い出はいくつもある。それらは、助かるすべがなければ、炎に呑まれ灰になったとて後悔のしようなどない。
けれど、愛する我が子がいま目の前に立っている。母の頬を涙がつたう。夫とふたりで穏やかな最期を迎えるはずだった。しかし、守りたいものができてしまったのだ。たとえ何を代償にしても、守りたいものが。
「なんとか、ならない……?」
母親がありったけの優しさをもって微笑む。窮地を脱する知恵も力も、自分にはない。せめて、悲しみでなく温かな気持ちで希望にすがりたいのだ。父親は彼女の肩にそっと手を添え、安心させるように目を細めた。次いで彼は子へ向き直って言う。
「ぼくたちは、君が生きてくれるのなら、それだけでいいんです。けれど──」
「みんなが助からないのであれば、僕は嫌です」
少年の瞳はまっすぐで、
「たまにはわがままもいいでしょう。心は決まりました。ありがとう」
父はいたずらっぽい笑みを浮かべ、子の頭を撫でた。その後、腕を組みひとしきり唸ると、「危険は覚悟のうえで、やるしかありませんね」と答えを出したようだ。
彼は母と子へそれぞれの役割を短く伝える。そこにいる誰ひとりとして、脱出の失敗や自己犠牲の言葉を口にはしなかった。
「急ぎましょう」
三人が同時に発した合図の声。
*
母親は不慣れながら船の翼を広げ始めた。少年と父親は倉庫から発射台を引っ張り出し、泉のみぎわに組み立て、固定する。
脱出方法はこうだ。
「船を真上に打ち上げます。風をうまく受ければ、大樹の
「全員が乗ったままでは、重さのせいで高度が足りない」
父の説明をヒウノが継ぐ。彼らは目配せで互いの考えを理解し合った。ふたりの雰囲気に不審を感じた母が問いかける。
「船に乗せるのは、この子にするのよね……?」
少年は首を横に振り、彼女の想いをゆっくりと否定した。自分にしかできないことを、よく知っているのだ。
「母さんは僕と一緒に」
彼は母の手を引き、泉の深みへと歩いてゆく。ヒウノが頭の先まで水につかると、彼女はひとつも問わず同じように全身をひたした。父は戻ってきた少年を満足そうに迎え、抱き寄せる。
「操縦席は空けておきます。言うまでもないと思いますが、一瞬のタイミングを逃さないように」
「はい。父さんも、気をつけて」
ふたりが身をはなす。ヒウノと入れ替わるように母が進み出て、夫の肩にもたれかかった。力なく彼の胸を叩いたのち、しっかりと見つめ合う。
「いけない子に育っちゃったじゃない。誰に似たのかしら」
「ぼくのせいですね」
「……ばか。わたしに似たのよ。あの子が待っているわ。あとでね」
夫婦は再会を約束し、
*
少年は、まだ火に襲われていない幹のもとへ向かった。琥珀色の石を持ち、勢いよく上方へ投げる。紐状の光が彼方までのび、ピンと張った。ヒウノが招くようにして空いた腕を広げると、母は足早に寄る。
「高いところが苦手でしたね。僕がいいって言うまで、目をつむっていてください」
「お母さん、ちっとも怖くないわ。あなたのがんばる姿を見せてちょうだい」
彼女は我が子に体をあずけ、何があってもはなさないようきつく手を組んだ。少年は左手で母の衣服をつかみ、握った右拳を引く。すると、
ふたりの姿が樹上へ消えるのを見届けると、父は船の後部席に乗り込んだ。ひとり静かに、ヒウノからの合図を待つ。
(あの子のわがままを、叱るべきだったのでしょうか。平手のひとつも打って、言うことをきかせておけば)
自らの考えを否定するように頬を叩き、鼻から深く息を吐き出した。
(いい子に育ってくれました。彼を助けるには、ぼくが生きるしかない)
短く
三人が去ったのち、思い出の残る家屋は炎に呑まれ、音を立てて崩れ落ちた。
第12話 終
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