第3話 美しいいきもの
泉の上に、ひとりの少女が浮かんでいた。直立の姿勢は、水面にふれそうな足の先までいささかの乱れもない。身にまとう赤い衣服はところどころ破け、その隙間からきめの細かい雪肌がのぞいている。すっかり水に濡れた布地は体にはりつき、成長途上にある女子の、柔らかな曲線を浮かび上がらせた。その姿は、ただひたすらに美しい。
しろがね色の髪からときおり雫が落ち、水の表面に小さな輪を広げる。少年は、楚々とした少女に目を奪われながらも、注意深く様子を窺った。
(よくないものでは、なさそうだけれど)
泉の真ん中にたたずむ少女まで、およそ三メートル。少年は無意識に歩を進め、気づけば膝の高さまで水に浸かっていた。鼓動が速い。それ以上進めば、底の見えない深さに達するふちで、少年は踏みとどまった。
小さな波が、彼女の生み出す波紋と交わる。すると、すうっと少女のまぶたが開き、焦点の定まらない目で少年を見据えた。
(僕を、見ている──?)
血を思わせる赤色の瞳に小さな光がゆらぐと、唇がかすかに動いた。直後、あたりを照らしていた薄青の光が急速に弱まり、少女が発する超常の力が失われてゆく。
光が収まると、少女は膝から崩れ落ち、水の中へ姿を消した。少年は腰から下げた鞄を水際へ放り投げると、短く息を吸い込み、少女を追って泉へと潜っていった。
*
泉の水は驚くほどに澄んでいた。そこが水中であることを忘れさせるような、あたり一面に広がる透明。扇状に射し込んだ月の光が、絹織物のように揺れ動いている。はるかかなたの水底は、闇に阻まれて見通せない。闇は、ふたりの沈みゆく先で、ただ静かに口を開けて待っていた。
月光の切れ目まで潜ったところで、少年は少女に追いついた。その手を取ってたぐり寄せ、しっかりと抱きとめる。体から発せられていた光は失われ、栗毛色の長い髪が水に揺らいだ。
(きれいだ──)
数瞬、少女の見目に惚ける少年だったが、若干の息苦しさに我に返る。気づけば、肺が悲鳴をあげ始めていた。
少女を強く抱き寄せると、少年は月を目指して浮かび上がってゆく。胸から伝わる少女の柔らかさの奥から、かすかな熱が感じ取れた。
ふたりの行先を見やる生き物の姿は、どこにもない。
*
水面まで浮上した少年は、すっかり水を吸って重くなった体を引きずり、岸までたどり着いた。少女をそっと横たえると、深く息をはいて呼吸を整える。ふと思い出して、放り投げた鞄を拾い上げ身につけると、いつも以上に重く感じた。
少年は彼女のそばに腰を下ろし、その顔をのぞき込んだ。べったりとはりついた長い髪をのけてやると、額から鼻にかけての美しいカーブが露わになる。つやのある唇の隙間から、かすかに空気がもれていた。胸のあたりが、規則正しく上下している。
(よかった。気を失っているだけだ)
その様子を見て、少年は胸を撫で下ろす。あちこちが裂け、水に濡れた薄い布は、女性の体を包むにはあまりに心許ない。可哀想になった少年は、上着を脱いでかけてやった。
「もし──」
少年はそう呼びかけて、彼女の肩をそっとゆすった。雫がひとつ、少年の短い前髪をつたって落ち、少女の卵のような輪郭をなぞる。気がつく様子はない。
どうしたものかと思案する少年は、だしぬけに襲った寒さに身震いした。暑い季節をすぎてからまだ日は浅いものの、夜の気温は、濡れた体ですごせるほどに高くはない。
(このままにしておけない。家へ連れて行こう)
「よし」と意気込むと、少年は少女の身を起こし、自らの背にのせて支え持つ。意識を失った人間には力がなく、たとえそれが華奢な少女であっても重いものである。ぐったりとした少女をゆすりあげると、いくぶんか楽になった。
家路につこうと一歩を踏み出す。と、そのとき、しんと静まり返った森に、かすかな葉擦れの音がした。
(何か、近づいてくる──)
少年は濡れた体からくるのではない寒気を感じ、目を見開き振り返る。そこに、黒く大きな、口のようなものが見えた。しかし次の瞬間、視界は黒一色に染まる。
猛然とやってきた黒いものがふたりを呑み込み、泉を突っ切ってゆく。水面にうつる月が大きくゆらぎ、やがて落ち着きを取り戻すころには、ふたりの姿は水際から消えていた。
第3話 終
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