第2話 大樹の森に降るひかり

 少年はふと空を見上げた。たなびく雲はいつの間にか流れゆき、美しい月がくっきりと見える。彼は直径二メートルほどの、太い枝の上に立っていた。枝葉の隙間から光が射し、少年の体を夜闇に浮かび上がらせる。

 体つきは成人のそれより細く発達の途上にあったが、よく鍛えられ引き締まっていた。整った目鼻立ちには幼さが抜け切らないものの、そこに浮かぶ表情は、同世代に比べてずいぶん大人びている。くせがなくまっすぐにのびた緑がかった黒髪は、短くそろえられていて清潔な印象を抱かせた。


「もうこんな時間。これを見たら、今日のぶんはおしまいにしないと」


 そう言うと、腰に下げた小刀を抜き、柄頭つかがしらで樹の幹の数箇所をやや強めに叩く。木肌は硬く、また、生あるものの重さを感じさせた。見上げると太く巨大な枝が伸び、葉が茂っている。

 少年は枯死木の調査をしていた。木の状態を目で見て、さわり、ときには自らの体重をのせて腐朽の進行を調べるのだ。樹高が百四十メートルにも達する木が連なる森で、その作業は易しいものではなかった。日に二、三本を調べられればよいほうで、本来は日中の明るいうちに行う。夜は視界が悪く、それだけで危険がともなうからだ。


「軽い音はしない。中は空洞化していないみたいだ」


 少年は満足そうに頷き、小刀を鞘におさめた。その顔に疲れの色は、わずかばかりもない。腰にかけた小さな鞄からノートを取り出すと、膝を折り、月明かりを頼りに何やら書き込む。

 少年は自分よりはるかに巨大な生命にふれ、その生と死を見届けるこの仕事が好きだった。人知でははかりしれない不思議にふれるときの、心の高鳴りがたまらないのだ。

 ノートを鞄にしまい深く息を吐くと、名残惜しそうに幹から体をはなした。


(そろそろ戻らないと。またこんな時間になって、母さん、怒るだろうな)


 家路につこうと樹上から身を乗り出す。と、そのとき、樹芯の上をひとすじの光が横切った。光は、自然が生み出すもの──たとえば流れ星のような──とは明らかに異なる姿をしていた。

 少年はすばやく空を仰ぎ光の行方を見やると、弾かれるようにして、眼下に広がる闇へと身を投げる。うつぶせの体勢で空気の抵抗を受けながら、猛烈な速度で落下してゆく。


(手が、震える……?)


 突如現れた“不思議”。

 早鐘を打つ胸のすみで、わずかなおそれが痛みとなって刺した。



 *



 月の明るい夜であったが、光は木々に遮られ森の底まで届かない。真っ暗闇を落下する少年は、すぐそばに大樹の幹を感じられたが、地面までの距離は見えずにいた。しかし、別段慌てる様子はない。


(さん、に、いち──)


 落下して数秒ののち彼は空中で身をひるがえすと、どこから取り出したのか琥珀色をした小石を持ち、手首の力をきかせて勢いよく投げた。すると、石のあとを追うように紐状の光が生まれ、幹へとのびてゆく。

 琥珀色の輝きが、彼の体と幹をつないだ。紐が張り、落下の勢いが急激におさまる。反動でゆれる体は、地面からほんの数メートルの高さにあった。

 少年が腕を引き寄せると、光紐こうちゅうが幹からはなれる。落下の衝撃を脚部全体で吸収し、少年は身軽に着地した。そのまま低い姿勢からぐんと足のばねを使い、すばらしい速力で駆けてゆく。

 琥珀色の紐がそのあとをついてゆき、右の手首のあたりへ吸い込まれるように消える。主の手のひらにおさまった石は、淡い光の粒となって空気にとけた。


 少年は夜目がきいた。墨を流したような夜の中、苔のむす森を軽やかに走ってゆく。


(夜ではあるけれど、こんなにも音がしないなんて)


 少年は森の異変をまず耳で感じ取った。樹上ではさして気にとめていなかったが、生き物の立てる音がまったくしないのだ。

 見上げると、空からやってきた光はだいぶ近くにあった。あまりのまぶしさに、今が夜であることを忘れさせるほどである。


(──泉に降りそうだ)


 彼のゆく少し先で、水を叩く大きな音がした。そののち、光が一面にあふれ、視界を覆う。しぶきが雨となって、あたりへ降り注いだ。少年はまばゆさと水粒を正面から受けながら、ゆるやかな足の運びで、光の降り立った先へと踏み入れた。

 ほどなくして光と雨がやむ。泉で待つものを目にした少年は、はっと息を呑んだ。視線の先には、薄青の淡い光をまとう少女の姿があった。



 第2話 終

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