第9話 海辺の町で

 海辺の町に、人が灯した明かりがゆらぐ。煌々こうこうとした輝きはひとつもなく、夜気が迫る中、人も町も眠りにつく準備を始めていた。ほんのりと地上を照らす月と、甘やかな花の香りをのせた風が一日の終わりをそっと告げる。

 町から少しはなれたところで船を降りたふたりは、人の営みのある場所へやってきたことを、他の何より足で感じた。踏み出した足先は、沈み込んでしまう砂から受け止め押し返してくれる土へと変わっている。それにもっとも反応を示したのはリトだった。


「土が柔らかいわ……。こうしていても、膝が痛くならない」


 少女は人目もはばからず、手のひらと膝で土の感触を楽しんでいる。


「ねえ、レン君。ほら見て。土がひび割れていないの」


 少年を見上げた少女の目は、きらきらと輝いていた。彼女の言葉に深い理解はともなっていない。ただ純粋に、肥沃な土壌に驚きを隠せないのだ。


「リトさんが感心するのも無理はありません。ここの土は、塩害にやられないよう手が入れられているんです」

「えんがい? あ──」


 ヒウノの言葉にきょとんとするリトだったが、すぐに自分の行為が普通でなかったのだと思い至った。


「もう、注意してって言ったのに」


 立ち上がり、膝についた土を払いながら少女は口をとがらせる。しかし、その姿を奇異の目で見る者は誰ひとりとしていなかった。通りを行く人々のまなざしは、みな温かい。幼い子どもが、リトの真似をしてよつんばいになってはしゃいだ。父親がそれをひょいと抱えて歩いてゆく。子どもは無邪気に手を振った。リトも、ばいばい、と微笑んで手を振り返す。


「宿はとおりの一番奥です。どの部屋からも海を見られるのが、自慢なんですよ」

「ふふっ、ご案内をありがとう」


 日はあっという間に落ち、見上げると空にはひとつふたつと星がまたたき始めていた。



 *



 小さな町の小さな宿は、いつ来ても観光客で賑わっている。料理がとびきり美味しいわけでなく、見所もさして多くはない。それでも人の流れが絶えないのは、町を包む温かさに、訪れた者がみな郷愁にも似た感情を覚えるからだ。


「今夜はここに泊まりましょう。おかみさんに話してきますね」


 短く言うと、ヒウノは受付に向かった。ひとり残されたリトは、往来の邪魔にならないよう、人の少ない場所へうつろうとする。


「わっ……」


 踏み出した先がふんわりとして、少女は思わず声をあげた。足元には柄のない絨毯が敷かれている。「ここで眠るのかしら」などと言いながら、少女はしゃがみこんで織物の表面を撫でた。土にふれたときもそうであったが、そこにある何もかもに、生命を感じずにはいられない。

 その背中に、突然、人のぬくもりが覆いかぶさった。


「どうしたの、よそゆきの服なんか着ちゃって」


 リトの背中から、快活な女性の声がした。


「あれ? ちょっと痩せた? それに、気のせいか肌が柔らかくなって──」

「シズ姉さん、僕はこっちですよ」


 受付から戻ってきたヒウノが、少女を後ろから抱きしめる女性に笑いかけた。向き直ったリトと目が合った彼女は、「あらやだ」とばつの悪そうな表情を浮かべ、その身をはなす。どうやら、親愛の情を向ける相手を間違えたようだ。居住まいを正すと、凛としたよくとおる声を響かせる。


「ごめんなさいね、てっきりヒュー君だと思って。あたしはシズ。ここのおかみの娘よ」


 女性はシズと名乗った。自らの失態をごまかすのではなく、心からこの出会いをよろこんでいるのが伝わる、人を惹きつける笑顔。宿という、多くの人を迎え送り出す場所に生まれた者が持つ才である。


「シズさんは、レン君のお姉さんなんですね」

「ううん、実の姉じゃないのよ。小さいころから一緒でね。弟が欲しかったのもあって、仲良くしてるの」


 すっきりとして明るい物言いの彼女に、少女は好感を抱いた。『弟が欲しい』のひと言もずいぶんときいている。弟が大好きなリトは、シズに親近感がわくのを禁じ得ない。


「わたしは、リト・リリーシエです。レン君のお世話になっていて、このお洋服は借りたものなんです」

「あなたたち、出会ってすぐよね。それで服を貸す間柄とはねぇ──」


 シズは、「ふぅん、へぇ」と、少年を見ながら想像をたくましくしている。リトは横目でちらりとヒウノを見た。


「母さんのものではサイズが大きいので、それで。僕の服のままではかわいそうですし、シズ姉さん、リトさんに合いそうなものを、見てもらえますか?」


 少年は女性ふたりの思いなどまったく気づく様子はない。そんなヒウノがおかしく、リトとシズは微笑み合った。


「あたしのはこんなのばっかりだから。妹は女の子らしい服も持っていたはず。着ないくせに買っちゃうの。でも、まずはパジャマね」


 こげ茶色の無地のニットに短めのパンツスタイルのシズは、動きやすい服装を好んでいるようだった。しなやかな曲線を描く脚部はほぼむき出しで、日に焼けているがしみはひとつもない。弾力性を感じさせる筋肉から、何かしらの鍛練の成果が窺えた。


「それよりあなたたち、その怪我はどうしたの? ヒュー君のおばさんが診てくれたようだから、安心だけれど」


 短めの髪を後ろで結いながら、彼女は階段に向かって歩き出す。少年に目で促され、リトは小走りにシズのあとを追った。


「ヒュー君って呼ばれてるのね。わたしもそうする?」

「子どものころ『ヒウノ』は少し発音しづらくて。リトさんはそのままでいいんですよ」

「そう? じゃあ、着替えてくるから、待っててね」


 リトとシズは、木のきしむ音を立てながら階段をのぼってゆく。ヒウノはふたりの姿を見送ると、待っている間、おかみさんの手伝いをしてすごすのだった。



 *



「リトちゃん、弟がいるのね。かわいいでしょ」

「はい、とっても」

「いいわねぇ。『おねえちゃん』ってついてきてくれる姿を想像すると、はぁ、もうたまらないわ。ああ、ごめんなさいね。それで名前は?」

「ふふっ。レレンって言います」


 ゆったりとしたルームワンピースに着替えたリトと、ヒウノ、シズの三人は、泊まり客の名前が書かれた帳簿を囲んでいた。海辺の町で宿泊できる場所は、シズの母が営む宿の一軒きりである。町、戒砂かいさ、巨大樹の森の、いずれを旅で訪れるにしても、ここへ泊まらずには行けないはずなのだ。歩いた道すじを知るには、宿帳を調べるのが一番である。


「レレン君ね。どれどれ──」


 シズは慣れた手つきでページをめくり、目当ての名前をさがしてゆく。薄い紙は彼女の指に吸い付くように持ち上がり、月日をさかのぼるのを助ける。紙の厚さが、たどった過去のぶんとまだ見ぬ過去のぶんとで半々になったとき、その名前は見つかった。


「あったわ。メナ・レレン・セラフェイオン君。お姉さんと一緒だったみたいね。名前は、メナ・ユユエ・セラフェイオンさん。リトちゃんは、三人姉弟かぁ」

「え──」


 姉と呼ばれたその名前をなぞる少女の指は、かすかだが、確かに震えていた。



 第9話 終

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