第7話 白い海

 ふたりを乗せた船が、ゆるやかな速度で木々の間を抜けてゆく。少年の家族が何度か行き来したのだろう、地面には平らにならされたあとがあった。しかし、人の手の入っていない森は舗装されておらず、ときおりがたんがたんと船体が大きく揺れる。


「こんな乗り物があるなんて。あの子も乗せてあげたいな」


 リトは初めての動物をともなわない乗り物に、気分が高揚していた。

 日の出ている間も森の中は暗い。しかし、細くひとすじ光が射し込むところもある。そこに生き物の姿を見つけた少女は、危ないと言われていたが思わず身を乗り出してしまう。

 ヒウノは後部席で楽しげにしている少女を見て、気づかれないよう船の速度を落とした。



 *



 しばらく進むと道の凸凹が減り、なだらかな下り坂にさしかかった。両脇に並ぶ巨木の間隔が広くなる。


「翼を広げます。少しの間、操縦をお願いできますか?」


 そう言ってヒウノは、後部席の少女へ手を差し出した。

 リトは快くその手を取り、前部席へ移ろうと腰を浮かせた。と、そのとき、坂をくだる速度が上がり、はずみで少女の体がつんのめる。ヒウノは特段慌てることもなく少女の衣服をつかみ、ぐいと胸元に引き寄せた。リトのかぶったヘルメットが少年の胸にあたり、鈍い音を立てる。


「びっくりした。ありがとう、受け止めてくれて。痛くなかった?」

「いえ。母と出かけるときもこうなりやすくて、慣れているんです」

「偉いのね」

「はじめのころは、反射的によけてしまって、ずいぶん叱られました。『体をはって女性を受け止めなさい』と」

「ふふっ。それって、さっきみたいに?」


 ヒウノは「はい」と苦笑しながら答えリトを席に座らせると、操縦のしかたを簡単に伝えた。


「もし怖いと感じたら、左にあるレバーをゆっくりと、少しだけ後ろに倒してください。速度が下がります。足元のペダルはそのままで大丈夫。踏み込んでしまったら、慌てずに僕を呼んでください。操縦桿はまっすぐに握って──」


 少女は要領がよく、すぐに船の進みが安定する。「上手ですね」と彼女を褒めたのち少年は身軽に翼へ飛び移り、右側から主翼を広げ始めた。手慣れたもので、少年はほんの数分で左右二枚の翼を広げ終え、操縦席へと戻ってくる。リトはよほど興味を持ったのか、このまま操縦をしてみたいと言う。ヒウノは短く頷くと、少女に寄り添ったまま船の速度を上げた。


「もうすぐ森を出ます。ゴーグルをつけてください」


 少年に促され、リトはゴーグルをつけた。視界が薄暗くなる。間もなく、ふたりを乗せた船は、勢いよく森を飛び出した。


 陽光のまぶしさに思わず目をつむった少女は、ゆっくりとまぶたを開く。眼前には、白く潮騒のない海が、果てなく広がっていた。翼に揚力を得て、船体は地表から一メートルほどの高さを飛んでいる。リトはそれに気づいてはいないようだった。


「ここ、は──」


 海を見つめる少女の反応は、明かに感動のそれではない。ヒウノにはそれが気にかかった。前方に危険がないことを確認すると、船の速度はそのままに少年は話し始める。


「ここは戒砂かいさと呼ばれる場所です。いましめるの「戒」と、見てのとおりの「砂」で、戒砂」

「いましめる、すな……」


 リトの瞳に強く嫌悪の色が浮かぶ。操縦桿を握る手に力がこもり、かすかに震える。少年は何も言わず、少女の手に自らの手を重ねた。


「見るのは、初めてですか?」

「ええ。知らないわ、こんな場所」


 少女の反応からすると、そうでないことははっきりとしていた。しかし、初めてではないのですね、と問えば、彼女が答えに窮するに違いない。ヒウノは、日頃、観光で訪れる者へするのと同じように、砂の海の成り立ちを話し始めた。


「遠い昔、この場所はまだ緑の深い地だったそうです。巨大樹が無数に立ち並び、切り倒すすべを持たなかった人間は、大地の端の海沿いで、慎ましく暮らしていました」


 少女はどこか遠くを見つめていて、ヒウノの声が耳に届いているかは、定かでなかった。少年は構わず続ける。


「その後、技術がどれだけ進歩しても、人々は森を拓こうとはしませんでした。自然がもたらす豊かな恵み──湧き水や木の実、そこに生きる動物の血肉や毛皮、倒木の利活用など──があれば、それ以上は何もいらなかったんです」

「自然の恵み……」


 リトは少年に応えるのではなく、ひとり呟いた。


「森との共生を選びはしましたが、生活の利便性を求めるのは、また別の話です。人や物の流れをよりよくするため、陸と海、ついには空をゆく乗り物が作られました」

「空を──?」


 ヒウノの歴史語りにリトが初めて反応する。ここはどの観光客もみな一様に興味を持つところであったが、少年には彼女のそれが、旅を楽しむ者とは少しだけ異なって見えた。


「空をゆく乗り物は、大地をはなれ雲の高さまで届いたそうです」

「雲に……」

「はい。でも、その乗り物は人々の生活に根差すことなく、消えていきました」

「──どうして」


 目を伏せ、そう口にした少女の声音には、寂しさと若干の非難が交じっていた。


「理由は、もう少ししたら見えてきます」


 少年の視線が少女からはなれ、船の行先へうつされる。

 リトはしばらくその横顔を見つめていたが、彼が向き直らないので同じ方向に目をやった。ふたりが見る先には、一面の白の世界が広がっている。

 やがてそこに、ぽつんとひとつ、小さな違和感が姿を現した。その色は黒い。


「あれが、この砂の大地を生み出したもので──かつて、空を翔けたと言われる乗り物です」


 そこには、原形をとどめないほどに破壊された、およそ乗り物とは呼べないものが横たわっていた。



 第7話 終

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