第8話 空は遠くに
かつて、空を翔ける船があった。陸をゆく者も海をゆく者も、みなが天を見上げ、空をゆく船の姿に夢を描いた。人や物がこれまでより多く交わるようになり、生活がもっと豊かになるだろう、と。しかし、その夢は叶うことなく、潰えた。
一度目は世界の西で。二度目は世界の東で。
空をゆく船は多くの人を乗せたまま沈み、大地は白い砂の海に没した。それから幾度、人は空に挑んだだろうか。遠くにあると思っていた砂の大地は、這うような速度で忍び寄り、気づけば人々の足元にまで迫っていた。どれほどの月日が流れても、砂の地に生命は根をおろさない。人が生きられる領域は、確実に狭まっていった。そして人々は知る。空を求める先には、乾いた世界の訪れだけが待っているのだ、と。
*
「ここは、空をゆく船が二度目に落ちた場所なんです。砂は果てが見えないほどに広がり、空への夢──飛行の実現は、禁忌として誰もが嫌うようになりました」
「昔の人たちは、なぜそうまでして空を飛びたかったのかしら」
「本当の理由は誰も知りません。ですが、こんな言い伝えがあります」
空を見上げる少年の横顔を陽光が照らし、少女にはいっそう輝きを増したように見えた。
「世界のどこかに、高い技術力を持った集団が隠れ住んでいて、今も人々の生活を支えています。父は会ったことがあるそうで、そのときにこの船を譲り受けたんです。話を聞いて、僕もいつか会ってみたいと思うようになりました」
「その人たちが、何か」
「彼らはこう話したそうです。『地をはなれ雲に届くとき、古き約束は果たされ、罪は消えてなくなるだろう』と。そのために費やされた時間と命の数は、決して少なくはなかったはずです。この海の広さを見る限り」
「罪が、消える──」
ヒウノの口調は、淡々としている。もう何度も、ここを訪れる者に話してきたのだ。
どこまでも広がる白の世界に横たわる、焼け焦げた黒く大きな残骸。白と黒のコントラストが生み出す風景美には、不思議と人を惹きつける魅力があった。加えて、夢を追った先人たちの
しかし、リトだけは違った。
「リトさん──!」
少女は何を思ったのか操縦席から身を乗り出し、躊躇なく飛び降りたのだ。ふたりを乗せた船の速度は四十ノット。着地する先が砂であっても、無事で済むはずがない。
予想だにしない彼女の行動に、少年の反応が遅れる。とっさに手をのばしたものの少女の体には届かず、空を掴む。ヒウノは数瞬迷ったが、リトを追うように宙へと身を投げた。そして、着地までのわずかな間に、少年は再び奇跡を目の当たりにする。
少女は両の手のひらを下に向け、何かを押し出すように腕を伸ばした。すると、勢いよく砂が舞い彼女の体が宙に浮かび上がる。落下が緩やかになり、リトはふわりと地に降り立った。
(まるで風を操ったみたいだ。昨晩のあれも──)
遅れて着地したヒウノは、少女とは対照的に派手に砂の上を転げ回った。それでも怪我をしなかったのは、無理に踏ん張ろうとせず、体にかかる力を受け流す心得があったからだ。ひどく砂にまみれはしたが。
見ると、リトは黒く変色した大きな翼に手を添え、瞳を閉じていた。故人を偲んでいるのか、沈痛な面持ちでいる。そのままにさせてやりたかったが、ヒウノはここが決して安全な場所ではないと知っていた。少女の手を取り、「はなれましょう」と促す。食いさがるリトの目が、なぜ? と訴えていた。
「小さいとき、父に連れられて何度もここへ来ていたんです。父は調査のためでしたが、僕にとっては遊び場みたいなもので。これは、そのときに──」
そう言うと、少年は右の袖をまくり少女に腕を見せた。
「ひどい
ヒウノは黙って頷く。右腕の内側、手のひらから手首の少し上まで線状の大きな傷跡があった。「痛む?」と少女は心配そうに言い、そっと少年の腕に手をあてる。昨夜、刺すような痛みが走ったが、少年はそれを伝えずにおいた。
「父は僕をかばって片方の足を失いました。さあ、残骸が崩れるといけないので、早く」
少年はリトの手首を引いて、足早にその場からはなれた。彼の足どりは強く、速い。少女はやや前のめりになりながら、小走りについてゆく。
「レン君。ちょっと、痛い」
「あ──。すみません、怪我をしているのに」
少女に言われ、ヒウノは力を緩めて手をはなす。見ると、強く握りすぎたのか、リトの手首はうっすら赤くなっていた。久しく忘れていた怒りの感情を、よりによって出会ったばかりの少女にぶつけてしまった。少年は自身の至らなさに奥歯を噛んだ。
「ううん、いいの。やっぱり男の子ね、すごい力。足も速くて」
少女は手をひらひらさせて、ほがらかに笑った。
「それよりどうしたの? こんなに砂だらけにして」
気遣って砂をはらってくれる少女に、ヒウノは心が穏やかになっていくのを感じるのだった。
きちんと着陸させなかったせいで、船はずいぶん先にあった。ふたりは言葉少なに、船が砂の上に描いた跡を歩いてゆく。少女の顔に疲れの色は浮かんでいない。むしろ歩き慣れているようにすら感じさせる。ヒウノはそれが少し気になった。もちろん、問いただすような真似はしない。
リトはさきほどと変わって、少年が自分の歩調に合わせてくれていると知り、その横顔を見て目を細めた。
ほどなくして、ふたりは船までたどり着く。まだ日は高く、汗が粒となって頬を伝った。再び船を走らせた少年は、「本当はいけないんですよ」と少女に笑いかけ、ヘルメットをはずしてみせた。リトは笑顔を返し、少年にならう。風が火照った顔と体を、心地よく冷ましてゆく。
目指す町へ着くころには日はすっかり傾き、夜が訪れようとしていた。
第8話 終
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