第15話 旅に出よう

「わたし、あんなに美味しいものを食べたのは初めて。おなかいっぱい」

「みんなリトさんの食欲に目を丸くしていましたね」

「あら。女の子だってたくさん食べるのよ」


 ヒウノは彼女の食べっぷりを思い出し笑みをこぼした。姿勢は美しく、料理を取り口へ運ぶさまには品があり、何より見ていて気持ちのよいほどに食べる。用意された皿は決して残さず、積み上がった枚数はその場にいた誰よりも多かった。「体重は気にならない?」と気遣うシズに、「やだ、わたしったら」と頬を赤らめる少女に、一同が笑ったのは言うまでもない。

 腹ごなしの散歩にと、ふたりは陽の沈みかけた浜辺へ出かける。裸足になり渚に立ったリトは、ときおり打ち寄せる高い波に濡れないよう、スカートのすそをつまみ上げた。脚から伝わってくるひんやりとした感触を心地良さそうにしている。


「これが、彼方かなたで空ととけあう水──『海』っていうのよね。わたし、知っているわ。きれいね、怖いくらいに」


 海を目にした少女の表現は、およそ普通とは言い難い。けれど少年は、その形容に込められた不思議な響きに、強く引きつけられた。


「ねえ、レン君。ううん、ヒウノ」


 少女の双眸そうぼうは穏やかに、それでいて心の奥底まで見通すかのように、少年を真正面から捉えた。夕陽を受け、水面にいくつもの小さな輝きがゆれる。微笑をたたえた彼女の眼差し。呼吸を忘れるほどのまばゆさに、ヒウノは得体のしれない恐怖にも似た感情を抱く。思わず視線を逸らした先で、少年は再び奇跡を目の当たりにした。


「わたしのこと、知りたい──?」


 振り返り、沖へ向かって歩き始める少女。踏み出した足先からは音もなく風が生じ、海の表面に波紋を広げた。両腕を水平にのばし、くるりくるりと踊るように歩を進める彼女の体は、重さを忘れ宙に浮かんでいる。

 リトの姿を、憧憬どうけいの念をもって見つめる少年。その心は、彼女にすっかり奪われていた。向き直った少女が、溢れんばかりの笑顔で「さぁ」と誘うように両手を差し出す。応えようとヒウノが一歩を踏み出したとき、突然リトの体が海の中へと消えた。


「リトさん!」


 濡れるのをいとわず、反射的に少年は駆け出した。泳いだほうが速い、と波をかき分け彼女のいた場所までたどり着くと、短く息を吸い込んで海中へとその身を沈めてゆく。透き通った海の底で、少女は彼が来るのを笑みを絶やさずに待っていた。少年は彼女の手を取り、浮かび上がるよう促す。リトは自身の細くしなやかな指をヒウノの指にからませ、ゆっくりと頷いた。

 飛沫しぶきを立てて、ふたりは陽のもとへと帰ってくる。


「初めて出会ったとき、こんなふうにわたしを助けてくれたのね」


 弾けるような彼女の笑顔。少年は硬くこわばった心がとかされてゆくのを感じた。


「もっと自然な、ありのままのあなたを見せて」

「リトさん──」

「話しかたも。ね?」


 ヒウノはうれしくなり目を細めると「うん」と答えた。


「あなたをもっともっと知りたい。体だけじゃない、心もそばにあると感じたいの。そうしたら、きっと──」

「僕はリトのことを知りたいと思っている。けれど、今すぐでなくていいんだ。待っているから。恐れずに話せる日がくるよう、君に信じてもらえる僕になる」


 少女は目の端に浮かんだ涙を拭い、その身を少年にあずけた。そっとお互いのひたいと額をくっつける。


「ありがとう。本当はひとりで不安だったの。ここへ来てから出会った人は、みんな温かくて、うれしかった。こんなに優しい場所があるんだって知って、うれしくてたまらないの」

「もっと広い世界を見に行こう。ふたりで」


 少年の言葉に感極まった少女は、破顔し、想いを告げた。


「旅に出よう、いっしょに」


 見つめ合うヒウノとリトを、寄せ来る波の音が柔らかく包み込む。はるか地平までのびる黄金色こがねいろの陽光が、ふたりの行く末を照らしているようであった。



 第15話 終

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