森のヒウノと空のリト

このはりと

第1章

第1話 空の彼方より

 少女の白いつまさきが、水面にうつる月を揺らした。一歩、また一歩と踏み出すたび、波紋が広がり消えてゆく。重さを忘れたのか、彼女は水の表面を沈まずに歩いていた。

 月がきれいな円を描く、穏やかな夜だった。鮮やかな光が照らす中、少女は密やかに歩く。背まで伸びた栗毛色の髪が、ときおり吹く風にさらりと流れる。

 いくつめの波の輪が消えたころだろうか、泉の中ほどに立つ樹の前で、少女はその歩みを止めた。樹冠まで十数メートル、葉は一枚もない。肌は灰の色をし、左右に垂れ下がった枝先が、人間の指の骨を思わせる。


「きっと、迎えに行くからね──」


 発せられた声は、幼な子をそっと抱くように柔らかい。年の頃は十六、七といったところか。目もとは涼しく、その顔立ちはどこか母性の強さを感じさせる。つややかな唇からもれた最後の言葉は、誰にも聞き届けられず、夜風に吹かれ消え入った。

 少女の細くしなやかな指先が、木皮にふれる。すると、はるか樹上から風が吹き抜け、水面にひときわ大きな輪を広げた。遅れて、泉を囲む木々がさざめく。少女がまとう、真白なひとつなぎの衣服のすそが舞い上がり、露わになった大腿を数度撫で、ふわりと足元に落ち着いた。

 あたりが、しんと静まり返る。


「いと古き、大樹に願う」


 儀式めいた口調で彼女が口にすると、幹にぼうっと、ほのかな光がともる。


(どうか消えないで──)


 腰の後ろにたずさえた小刀を抜き、左手中指の腹を浅く刺すと、じわりと血がにじみ、小さな溜まりを作った。それをすっと唇になじませる。


けがれた我が身を清め、隔ての先へ、わたしたまえ」


 祈るように言うと、瞳を閉じ、木皮に口づけをした。可憐な唇を染める鮮赤が、灰の肌に溶け込んでゆく。


(わたししかいないの。だから、お願い──)


 強く目をつむる。細い肩が、かすかに震えていた。

 間をおいて、幹が鈍く脈を打ち始める。木肌は赤黒く染まり、血の通った生き物のようなぬくもりを帯びていた。それを感じた少女は、そっと樹木から身をはなす。深く安堵のため息をこぼすと、その表情は和らぎ、彼女の持つ本来の愛らしさを覗かせた。黒く大きな瞳には、優しさが満ち満ちている。

 樹上から青白く光る二本の細枝が伸びてきた。そのまま少女の華奢な手首を絡め取ると、体を宙へ持ち上げてゆく。彼女は抵抗するそぶりを見せない。耳障りな音を立て、左右に広がる枝がゆっくりと内側を向く。その様相は、まるで少女の体を掴まんとするようだった。


(きれいな月。あの子も、どこかで見ているわ)


 空を仰ぎ見て、少女は目を細める。

 直後、びくりとその体が大きく跳ねた。勢いで耳飾りが澄んだ音を立てる。見ると、両指の数の樹枝が少女のまとう薄布を裂き、その柔らかな体側たいそくと背を刺し貫いていた。真白な衣服に朱がにじむ。けれども、彼女の顔に痛みや苦しみの色はない。血を吸った幹は、いつしか青白い光を湛えていた。

 少女の下肢をつたい、一滴、赤い雫がこぼれる。

 それを合図に、卒然と異変は起こった。少女の栗毛色の髪が、瞬くうち、しろがね色に染まってゆく。薄く開かれ宙空を見やる瞳に生気はなく、色は血よりもさらに鮮やかな赤色をしていた。


「……」


 だしぬけに襲った夜嵐が、糸繰り人形と化した彼女の体を天高く巻き上げた。灰の樹が発する燐光が一点に集まり、少女の体を打ち据える。そののち、光は収縮し、弾かれるように北の彼方へと伸びていった。

 夜天にひとすじ、青い尾が描かれる。やがてそれは、うすらと音もなく闇にとけた。水面を揺らすものを失い、泉はいつしか静けさを取り戻すのだった。



 *



 光が少女を内に抱き、風を切ってはしる。遮るもののない空で、目のような月だけがその行方を追った。

 眼下に雲の海が広がっている。光の尾は徐々に高度を下げ、月から逃れるようにして、白い綿の中へと少女の姿を隠した。

 厚い雲のはるか下方に、巨大な樹々が群れをなしているのが見えた。中心はぽっかりと開き、水の表面が月の色に煌めいている。雲を突き抜けた光は、的を射る矢さながらに、そこへと伸びてゆくのだった。



 第1話 終

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