第23話 再び森へ

 意識の戻らない少女を背負い、ヒウノは急ぎ街をはなれた。雲の檻は街の最西端にあり、真夜中ともなれば人の往来はまずない。街灯もまばらで夜に紛れやすかった。

 ヒウノは息を整えながら、目的地までの道行きを思案した。


『西の果てで待つ』


 少年はユユエと名乗った女性の言葉を思い返した。

 今いる中央大陸から西大陸へ向かうには、陸と海のふたつの道がある。洋上を陸沿いに行くのがもっともはやい。けれど、船に乗ろうとすれば、ヒウノの背で眠る少女は、善をなす者たちにたちまち奪い去られてしまうだろう。選択肢はひとつしかなかった。

 陸路を使って中央大陸から西大陸へ抜けるのは、平坦な道行きではなかった。2つの巨大な自然が障壁となるからだ。


「身を隠すにはちょうどいい」


 ふたりの前に、樹高百数十メートルの木々が連なる森が姿を見せた。ヒウノが暮らしていた森よりもさらに険しく、生物の営みはなぜだかまったくない。足元は透明度の高い水に浸かっている。幅広の渡し板を浮かばせてあり、徒歩で往来できるようになっている。水の中を覗き込むと太い根が見えた。夜のせいもあり、根の深さは窺い知れない。

 水面みなもにひとつ雫が落ち、波紋を広げた。少女とはいえ意識のない者を背負うのは、相当の負担が生じる。夜風に肌寒さを感じる季節になった。しかし、大粒の汗が留まることなく、少年の頬を流れた。そこでヒウノは、ふと異変に気づいた。


「この季節の夜にしては、暖かすぎる……」


 森の気温が上昇している、少年はそう肌で感じとった。原因を探ると、すぐに行き当たった。足元の水面からうっすらと湯気がたちのぼっている。しゃがみこんで手を差し入れてみた。想像どおり水はぬるく、指先が心地よい。

 疲労が抜けてゆき、無意識に気持ちがゆるむ。「いけない」と声に出したそのとき、もはや元に戻せないほどに体勢は大きく前のめりに崩れていた。少女がヒウノの背からずるりと滑り、いで少年も水中へと落ちていった。


 少女の口から空気がもれる。はじめは小さなあぶくであったが、やがてごぼっと鈍い音とともに無数の大きな気泡に変わった。意識を取り戻したのだ。

 空気をすっかり吐き出してしまった。ここがどこであるのか、自分のおかれた状況が呑み込めず、息苦しさと混乱が少女を襲う。何者かが彼女の胴をぐいっと引き寄せた。それがさらに少女を戸惑わせた。振りほどこうと身をよじり、腕をばたばたと動かした。しかし、あらゆる動作が重く感じる。そこでようやく、自身の体が水中にあると知覚した。

 呼吸もままならず、少女の抵抗は弱々しくなっていった。対して、彼女を引き上げる力がぐんと増す。「わたし、もう少しだけ、きれいな風景を見ていたかった……」すっかり体から力が抜け、死の訪れを近くに感じた。

 本当なら、まだ自らに課せられた役目を投げ出すわけにはいかなかった。けれど、本心ではおしまいにしたかった。もう、何もしなくていいのだ。したいことも、したくないことも、あざむき欺かれることも、なにもかもが終わる。リトは不思議な安堵に包まれていた。

 そんな彼女を、唐突に息苦しさが襲った。大きく息を吸い込み、短く吐く。一気に肺に空気が入ってくる。心臓がどんどんと胸を叩いた。ただただ苦しい。

 しばらくして呼吸が落ち着いてゆくにつれ、リトは自分がまだ生きているのだと知った。かたわらには、少年の姿があった。



 第23話 終

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