第32話 古き約束を知る者

 風を切って宙を進む中、ヒウノはちらりと後方を見やり、眉をひそめた。追ってくる女性の姿がない。かわりに小型の飛行機械がこちらへまっすぐに向かってきている。その形状は見慣れたものだった。


「ヒウノのお父さまかしら……?」


 少女も気づいた。

 おそらく父ではない。ヒウノは警戒を解かず、わずかな動きも見逃すまいと注視している。

 操縦席から手を振る者がいた。「おーい、久しぶりじゃのう」しわがれた声がする。緊張感のない、男性の陽気な声だ。老人だった。背丈が低いのだろう、はげあがった頭頂部を除いて、その姿はほとんど見えない。


「知っている人?」


 小首を傾げるリトに、少年は「大丈夫。会うのは初めてだけれど、知っている人だよ」とこたえ、表情を和らげた。



 *



 湖面にひとつ大きな輪を広げ、ヒウノとリトはふわりと地に降りた。はなれた場所に飛行機械が水飛沫を立てて着水し波が生じた。大きな弧を描きながら、ゆっくりとふたりに近づいてくる。少女は、足もとへやわらかく寄せるさざなみに目を細めた。

 飛行機械の操縦席から、老人がひょいと飛び降りた。ずいぶんと身軽だ。ざぶんと音を立てて着地する。


「ひさしいのう、レクスター。なにやら難儀していたようじゃが、大事ないか?」


 リトは「人違いかしら?」とヒウノに疑問の視線を送った。「父さんに飛行機械をくれた人なんだ」少年は彼女に頷き返したのち、膝をついて老人と目線を合わせた。


「レクスターは僕の父です。はじめまして、おじいさん。僕はヒウノです」

「子どもじゃったか。ほほっ。どうりで、よく似とるわけじゃ。警察に目をつけられるとは、わるさでもしたのかのぅ?」


 リトの服装から、ヒウノが警察の世話になっていると思ったようだ。顔の輪郭よりも大きな白いふさふさの髭を撫でながら、老人は快活に笑った。「わしのことはおきなとでも呼んでくれればよい。それで、そちらの女の子さんは」と少女を見る。

 リトは名前を口にするのに躊躇ためらいがあった。森でシィと出会ったとき、自分を「リリーシエ」と呼ぶ者がいると知った。口にこそしないが、ヒウノが疑念を抱きつつあるのを感じている。しかし、ここで名乗らなければさらに怪しまれるだろう。老人は笑顔を浮かべて待っている。


「わたしは、リト・リリーシエです」


 老人は少女の名前を聞いて「おお……」とやや驚き、大きく頷いた。


「リリーシエだね」


 彼女の名前を聞き、それまでは明るかった声のトーンが少しだけ下がった。


「その格好からするに、ここで仕事を得て暮らしているのだね。大変な苦労をしたのだろう。リトと出会ったのはお前さんでふたりめか。会えてうれしいよ」

「あの、おじいさん――」


 嫌な予感が的中した。この老人は自分の――自分たちのことを間違いなく知っている。少女は老人の語りをなんとかして遮りたかった。


「みなはまだ檻の中なのじゃろう? すまないね。わしらならば迎えに行ってやれるはずが、頃合いが見定められなくてのぅ。ぐずぐずしてしているうちに、また雪が降り始めたわい」


 老人は独り言のように、古い言い伝えの一節をつぶやいた。『地をはなれ雲に届くとき、古き約束は果たされ、罪は消えてなくなるだろう』


「いっときも忘れてはおらんよ。果たすのはわしらじゃと、今も信じておる」


 ほぅ、とひと息ついたのち、老人は少女に問いかけた。


「女の子さんや、もうユユエとは会ったのかい?」

「いえ、まだ。ごめんなさい、おじいさん。このお話はもうここで……」


 ヒウノは少女の名を小声で呼び、話に加わった。


「翁、その人とは街で会いました。西の果てセラフェイオンで待つと、そう言っていました」

「そうかそうか。あの娘にも、ずいぶんとつらい思いをさせてしもうたわい。どうか、会ってやってくれ」

「はい」


 少年と少女の頷く声が重なった。「ありがとうよ」と、老人はしわの多い顔をほころばせた。



 第32話 終

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