第26話 少女の名
追っ手の最後のひとりが、ひと息にヒウノの懐へ飛び込んだ。低い姿勢から、少年の下顎をめがけて左のかかとを突き上げる。身のこなしは美しく、それでいて鋭い。右の軸足の先から垂直に突き出した左の足先まで、体がまっすぐな一本の線を描いた。
ヒウノは初撃を紙一重でかわした。「次は右から来る」そうなるのが当然かのように、相手が繰り出す次の動作がわかった。飛び上がった相手の右膝が、少年の側頭部を狙って放たれる。これもかわした。「次は左。型どおりに」空中で体をひねり、少年の胸部へと左脚が突き出される。受け流した。まるで殺気が込められていない。ヒウノの技を手本に、弟子がそれを再現して見せる、稽古のようだった。
「上手になったね」
「うれしくないよ。今、褒められたって……」
追っ手は、家族も同然に育った年下の少女だった。少女は力なく微笑んで、戦いの構えを解いた。
「お仕事がこんなにつらいと感じたのは、今日がはじめて……」
シィがこぼしたつぶやきは、朝の訪れにとけて消えた。
*
「本当に森へ入っていたなんて。あの鳥が言っていたとおり」
少しだけ本来の明るさを取り戻したシィが、これまでの出来事を話し始めた。
「鳥が、言っていた?」
「うん。信じられないかもしれないけれど、鳥がやってきてしゃべったの。大きさはカラスくらいだった。しわがれたおばあちゃんの声でね。リトさんが森へ逃げたぞって」
シィの表情は真剣だった。少年は彼女の性格をよく知っている。こんなときに冗談を言う子ではない。話を微塵も疑わなかった。それに、鳥も老婆も、街での一件で心当たりがある。
ヒウノはリトのほうを見た。知らない、と彼女は首を横に振った。「そういえば……」と、シィは思い出したように言う。
「おばあちゃんの声は、リトさんのことを『リリーシエ』と呼んでいたわ」
リリーシエ。ユユエという女性もそう口にした。少年はこれまでに見聞きした名前を思い返した。
初めて少女と顔を合わせたとき、彼女はリト・リリーシエと名乗った。宿の台帳にあった弟の名は、メナ・レレン・セラフェイオンだった。少女は弟を『レレン』と呼ぶ。その姉とおぼしい、街で怪鳥を打ち払った女性の名は、メナ・ユユエ・セラフェイオン。彼女は自身の名を『ユユエ』と言った。
セラフェイオンとは、西の果てに存在する集落の名である。リトを除く姉弟にはその名がある。リトにだけないのは何か不自然だ。そう考えながら少女に視線を向けると、リトはひどく追い詰められた表情をしていた。
少年はハッとした。彼女に、疑念を感じさせてしまったのかもしれない。夕暮れの海で、恐れずに話せる日が来るのを待つ、そう約束したというのに。
「ねぇ、シィちゃん。そのおばあさんは、わたしのこと、他になにか言っていなかった……?」
「他にですか? いいえ、他には何も」
「――そう」
よかった、とかすかにこぼれた声は、ヒウノの耳にはっきりと届いた。
「ヒュー兄ちゃんたちは、このまま森を抜けるの?」
「うん。じきに僕たちがここにいると知られるはずだからね。すぐには追いつかれないと思う。けれど、先を急ぐよ。行こう、リト」
「え、ええ。そうしましょう……」
手を差し伸べる少年にかろうじて返事はしたものの、リトは自身の両腕を抱きかかえて、身を震わせていた。唇からは、あたたかみのある色がすっかり抜け落ちている。顔が蒼白だ。
「たいへん。きっと夜風に冷えてしまったのだわ。――そうだ」
何やら思いついたのか、出し抜けにシィが着衣を脱ぎ始めた。突然のことに目を丸くしているリトに、「ほら、リトさんも」と促す。
「その服は、よくも悪くも目立ちます。少し破けているせいで、お肌が見えちゃっていますし。これに着替えてください。警察の恰好をしていると、それはそれで目立ちます。でも、そのぶんヘンな人は寄りつきませんから」
「ありがとう。でも、いいの? シィちゃんがこの服を着ていたら、わたしを助けたと疑われないかしら?」
「大丈夫ですよ。だって、あたしの服ですから」
曇りなく晴れやかに笑う少女。つられて、リトもかすかに微笑んだ。着替えるふたりの少女は、ここにひとり男性がいるとはまるで気にしていなかった。けっして乙女の慎みがないわけではない。少年への親しみの情が強いのだ。間違いを起こさないと、信頼もしている。夜明けを迎えた森に、束の間、あたたかい空気が流れた。
ほどなくして支度を済ませたヒウノとリトは、シィに別れを告げ、森の奥へと歩みを進めた。ふたりの姿が消えたのち、ひとり残った少女は自身の格好を見て、満足そうに目を細めた。
「こんなことでもなければ、今もクローゼットにしまったままだったのだろうなぁ。ふふっ、良家のお嬢様みたいじゃない? お姉ちゃんじゃあ、こうは着こなせないわ」
それから数刻が経ち、少人数の部隊がやってきて、彼女を拘束した。きっときつい仕置きが待っている。泣いてしまうかもしれない。そう分かっていても、シィの表情はどこか晴れ晴れとしていた。
第26話 終
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