第25話 迷いなく放つ一撃

 僕の考えが甘かった。身を切るほどの冷たい風を受けながら、ヒウノは自分の至らなさを悔いた。耳に届いた音は、きっと悲鳴だ。彼女をひとりにすべきではなかった。十中八九、追っ手がかかったのだ。

 リトが牢から脱したと知られるのは、どれほど早くても陽がのぼったあとだと思っていた。監視のない雲の檻フィルアノアの性質を考えると、数日は気づかれない可能性だってある。だが、それは楽観にすぎた。おそらく、なにかしらの動きがあったに違いない。彼女を見張る必要がなくなる、何かが。

 得心とくしんがいかないのは追っ手の動きだ。捜索するなら、まずは街中まちなかからが定石だ。こうも早く森へ足を踏み入れるなど、予想だにしなかった。

 不自然にすぎる。勘がいいどころの話ではない。追跡はあまりに正確で、不自然だった。

 衣服が濡れているのは好都合だった。落下の風を受けても、布がはたはたと音を立てずに済む。少年は左の人差し指と親指をくわえ、大きく息を吸い込んだ。直後、高く鋭い音が鳴り響く。指笛だ。


(ひとり、ふたり――三人。リトは自分の足で立っている)


 天地が逆さまの状態で目を見開き、少年は追っ手の数を正確に把握した。視界の端でリトの無事が確認できた。

 次いで、高所から落ちる勢いはそのままに、頭から水中へ飛び込んだ。すぐさま身をひるがえし、琥珀色の石を渡し板の底へとめがけて放つ。石は水の中にあっても、いささかも速度を鈍らせなかった。

 突如の異変に、追っ手の動きが緩慢になる。隙が生まれた。光紐こうちゅうが縮み、少年の体を勢いよく浮上させる。少年は宙へ飛び出した。

 岩塊のような少年の右膝が、追っ手の側頭部を打った。うめき声があがる。男の低い声だ。男はくずおれそうになるのを堪えた。先の一撃で倒れないほどには、鍛えられているようだった。だが、ヒウノにとっては、たいが死んでいるも同然だった。

 ヒウノは空中で体を回転させると、その勢いで左脚を突き出した。男はたまらずよろめき、後方へ大きく退いた。渡し板の幅はさして広くはない。男がもうひとりの追っ手とぶつかった。

 渡し板に着地した少年は、すくんでいる少女を後方へ押しやり、身をかがめ追っ手へと駆けだした。少女はよろめき、尻もちをついた。「気遣いはあとでだってできる」少女をいたわりたい心を引きはがし、少年は意識のすべてを追っ手に集中させた。

 男が姿勢を直そうとしたそのとき、視界に少年の姿はなかった。どこだ、と口にする暇もなかった。強い衝撃が彼の脳を揺さぶる。少年の両の掌が、さながら槍のように追っ手の下顎を突き上げた。のけぞった男の頭部が、後方に控えるもうひとりの追っ手の頭部を打つ。ふたりの体勢がぐらりとかしいだ。

 ためらうな。少年は心の中で何度も繰り返す。一撃をあやまてば、窮地に陥るのは自分なのだ。生きる糧を得るために森の生命を狩るときと、なんら変わりはない。自らが生きるために、あるいは命を脅かすものに放つ一撃に、迷いがあってはならない。

 ヒウノは腰から真っ白な小刀を抜き、渾身の力でふたりの追っ手に刀身の背を見舞った。手渡されたときは鞘から抜けなかった小刀が、なぜだかするりと抜けた。

 意識を失い、水面へと崩れ落ちる追っ手の襟元を乱暴につかみ、投げ捨てるように渡し板に横たえた。雑な扱いを悔いる気持ちは、意識の隅へと追いやった。追っ手はもうひとりいる。隙を見せるわけにはいかない。

 残るひとりは警戒心が強そうだった。仲間がやられたというのに駆け寄ろうとしない。こちらをじっと見ている。

 あたりはまだ薄暗い。しかし、ヒウノは相対する者が自分をまっすぐに見ているとわかった。線が細く小柄だ。女性かもしれない。ヒウノはそう思った。


「このまま行かせてくれませんか? 僕たちに害意はないんです。街には二度と近づきません。だから――」

「それは……できません!」


 言うが早いか、少年よりさらに低く沈み込んだ体勢から、相手は地を蹴った。

 その声は、少しばかり幼さを感じさせる、若い女性のものだった。



 第25話 終

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