第29話 眠る子

 太陽が高くのぼったころ、ヒウノは目を覚ました。いつの間に眠ってしまったのだろう。追っ手のない樹上に身を隠したとはいえ、気が緩みすぎだ。少年は苦笑した。

 樹幹に接している背は冷たい。しかし、体の正面、特に右腕がとても温かかった。見ると、リトが体を丸くして寝息を立てている。彼女の両腕が、少年の右腕を抱えていた。そっと腕を引き抜こうとすると、少女のまぶたがかすかに動いた。


「ごめん。起こしてしまったね」

「ううん、いいの。おはよう。寒いわね」


 身を起こしたリトの表情に、いくぶんか明るさが戻っていた。



 *



 雪は依然降り続いていた。心なしか量が増しているようだった。リトの目には、雪が舞い落ちる風景が美しくうつっていた。少しの寒さなど吹き飛ぶほどに心が躍る。いつまでだって見ていられる。対して、少年の表情は険しい。彼が何を感じているのか心配になり、少女は尋ねた。


「まだ雪が降る季節ではない、と言っていたわね。気になるの?」

「気にしすぎなのかもしれない。けれど、合っているんだ。古い言い伝えと」

「言い伝え?」

「うん。大昔、この森にひとりの子どもが置き去りにされたんだ。親は理由を告げずにいなくなったそうだよ。森が水に浸っているのは、ひとり残された子どもが流した涙によるものだと言われている」

「それは――かわいそうに」

「そうだね。その子はやがて長い眠りについた。けれど、ときどき去った親を近くに感じて、眠りが浅くなるらしい。迎えに来てくれない親に腹を立てて、怒りが熱となって――」

「水があたたかくなる」


 リトはおぼろげな記憶ではあるが、水の中が冷たくなかったことを思い出す。


「怒りが収まらずにいると、雪が降り始めるそうなんだ。ちょうど、こんなふうに。それは『しずめの雪』と呼ばれている」


 ヒウノが空へ向けて手をのばす。手のひらで雪がとけた。


「これが鎮め雪だとして、もしこのまま降り続いたら、なにかよくないことが起きるかもしれない」

「どうして、そう思うの?」

「言い伝えにはこうもあるんだ。『しずめの雪が降り止むとき、子は眠りより覚め、親のすべてを滅さん』と」

「……親を滅ぼす子。親を、滅ぼすための子。置いていった親は、その子から逃げた。怖くなって――」


 少女の顔から血の気が引いていた。目は充血し、視線は宙をさまよっている。


「ごめん、怖がらせたね。ただの言い伝えだよ。今年は、雪の季節の訪れが少し早いのかもしれない」

「――ついの子」

「リト……?」


 初めて耳にする言葉だった。「この子は何かを知っている」ヒウノはそう確信した。


「それは、終の子だわ。言い伝えなんかじゃない。でも、いったい誰が……。どうしてわたしたち以外の人に伝わっているの……?」

「リト、君は何か知っているんだね」

「話せなくて、ごめんなさい。あなたには、とてもよくしてもらったというのに」


 少女は改めて、目の前にいる少年の存在を認めた。感謝の念が湧き上がってくる。


「ヒウノ、今までそばにいてくれてありがとう。ここでお別れしましょう。わたしが来たことも、わたしたちが近づいていることも、ぜんぶ知られているのだわ。だから、眠りから覚めようとしている。与えられた使命をまっとうするために……」


 出会ってから今日まで、一緒にいてくれてありがとう。まだ命があるのは、すべてあなたのおかげ。だから、もう終わりにしなければ。

 そのとき、森がざわめいた。突如、ふたりのいる場所を風の渦が襲う。次いで、声が響いた。


『まったく、欲深い娘だよ。逃げ込んだ檻の中で朽ちてゆけばいいものを』


 奇妙な声だった。しわがれた老婆の声と抑揚のない透き通った声が、同時に重なって聞こえる。ヒウノはどちらの声にも聞き覚えがあった。声の片方は味方かもしれない。しかしもう片方は、おそらく敵だ。


『眠った子を起こさせやしないよ。お前はここで消えてなくなりな』


 突風が太い枝を引き裂き、ふたりに迫る。


「ヒウノは、高いところは平気よね」


 そう言うと、少女は両手でヒウノの体を宙に押し出し、自身は逆のほうへ身を投げた。木片が激しく飛び、ふたりのいた足場は粉々になった。

 降り注ぐ木くずの隙間から、少年は少女の姿を目で追った。白銀の髪に変容していないのが見えた。彼女が両手を突き出すと、大きな葉擦れが起こる。風を生み出しているようだった。風の反動を受け、少女は西へ向けて飛び去ってゆく。そのあとを猛然と追う者がいた。


「――人、なのか?」


 ほんの数舜のことだったが、ヒウノの目は長身の女性の姿をとらえた。それは、街で怪鳥を打ち払った女性にとてもよく似ていた。



 第29話 終

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