第34話 湖の果て

 飛行機械が湖面すれすれの高さを飛んでいる。周囲に人の目はひとつもない。思い切り大空を飛んだら、さぞ清々しい気持ちになれるだろう。つかの間の気晴らしに、と思わなくもない。しかし、操縦席の老人はそうはしなかった。

 ヒウノとリトは後部席に身を寄せ合って乗り込んでいた。飛行機械の座席は、もともと大人一人ぶんの空間で設計されていた。子どもの体とはいえ、一席にふたりで乗るには狭い。少年が座席に座り、少女は彼の脚の隙間で身を縮めていた。おたがいの体温が感じられ、そばにいるのはわかる。だが、会話らしい会話はない。風の音鳴りと水面の飛沫の音が、いやに大きく聞こえた。


「ねえ、ヒウノ。わたしの名前を呼んでくれる?」


 唐突に口を開いた少女が少年に問いかける。


「リト」

「うん。ありがとう……」


 張り詰めていた気持ちが緩んだのか、少女は体から力を抜き、ゆっくりと少年にもたれかかった。


 流れゆく雲や、湖面に照り返す陽光を追いかけるように羽ばたく鳥たち、ゆるやかに傾く太陽を見ながら、どれだけの時間がすぎただろうか。飛行機械の駆動音がやみ、かわりに波のさざめきが耳に届いた。

 湖の果ては、大海につながっていた。


「さぁ、着いたよ。名残惜しいがお別れじゃな」


 ほほっと老人が笑った。ひらりと身軽に操縦席から飛び降りる。ざぶんと着水の音がした。後部席にいたふたりも湖に降りた。

 少し離れたところに、ぽつぽつと小さく灯りが見える。海に臨む町とそこに住む人々の営みによる光だった。

 少年と少女は無言で頷き合って口を開いた。


「翁、実は僕たち、警察に追われているんです」

「ほぅ。続けなさい」

「わたしがいけないんです。わたしたちの――いえ、わたしの力が、きっとたくさんの人に迷惑をかけました。それで追われることに……。おじいさん、わたしたちはまだ、帰る方法を見つけられていません――。ごめんなさい、もっと早くに伝えられたのに」


 リトの言葉に、老人の目がゆっくりと見開かれてゆく。「そうか……。そうじゃったか……」老人は残念そうにもらすと、長いため息をついた。


「わしらが世の中に空を飛ぶ力を示したころは、それはそれはもてはやされたものじゃった。しかしな、戒砂を生み出してからは、すっかり追われる身じゃ」


 ふたりを見て、老人は目を細めた。


「ほほっ、わしらはおんなじじゃな。上手に隠れ、逃げ続けなければならん」

「おじいさんは、なにも悪くないわ」


 少女は両膝をつき、老人の小さな体を抱きしめた。老人はうれしそうにして、彼女の背中を慰めるように叩いた。「そういう話ならば」老人はヒウノのほうへ向き直る。


「こいつの動かしかたは心配なさそうじゃな。お前さんの父に譲ったものとおんなじじゃよ。ああ、少し物騒なモノはついとるがね」

「翁――おじいさん、ありがとうございます。お借りします」

「いつか、きちんと返しに来なさい。女の子さんといっしょに」


 老人は低い声で、ヒウノにだけ聞こえるように続けた。「いいかい。人の目が届くところでは、けっして飛ばしてはならんよ。なにがあっても、けっして」少年は強く頷いた。


「ほほっ。わしといっしょに、生涯追われる身になるのはいやじゃろうて」


 老人は空を見上げ、朗らかに笑ってみせた。それが悲嘆によるものではないと、ヒウノもリトもよくわかっていた。自分たちを明るい気持ちで送り出そうとしてくれている。


「さて、ここでお別れじゃな。また会える日を、楽しみにしておるよ。その日は――」


 老人はリトのほうを見て言った。


「すっかり遅くなってしもうたが、お前さんたちを迎えに行く日になるやもしれんのぅ」


 ほほっ、と短く笑うと、老人はきびすを返して歩き始めた。去ってゆく小さな背を見送りながら、少女は深く頭を下げた。それが見えているかのように、老人はひらひらと片手を振って応えた。



 第34話 終

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