第38話 水の底

 新たな先導となった女性の背を、ヒウノは用心しつつ追った。何が起こっても対処できるよう、一定の距離を保つ。こうしている今にも、目の前の女性が突然振り向き、先の湖と同様に刃を振り下ろすかもしれない。少女は自身の後ろにまわした。


「――何か?」


 そんなヒウノの視線に気づいたのか、女性は背を向けたまま少年に問いかけた。ヒウノは口をつぐんで答えない。ユユエはそんな少年の様子に、声を立てずわずかに笑ったようだった。


「悪いようにはしない。ついてきなさい」

「はい」


 自分が何を思っているのか、おそらく見透かされている。少年にはそれが感じとれた。しかし、今は黙って彼女に従うしかないのもわかっている。リトの手を引いて女性のあとに続く。

 ユユエの歩調はゆるやかだった。



 *



 つないだ少女の手から、かすかな緊張が伝わってくる。もうすぐ、待ち望んだ弟と会えるのだ。おそらく、「うれしい」だけではないのだろう。彼女の複雑な心境は想像にかたくない。

 風が強くなってきた。霧のような雨が吹きつけ視界を悪くする。前を歩く女性は超然としていて、足取りにはいささかの乱れもない。向かう先に目をやると、家屋やそれに類するものはなかった。水面に浮かべた足場は途切れ、雨により無数の波紋が生まれては消えゆく湖が待っている。


「ふたりともこちらへ。レレンはこの先に」

「この先って、水の中に? あの子は――」

「会えばわかる」


 少女の不安をよそに、女性は平然と湖面へ踏み出した。彼女もリトと同じように、自然に働きかける力を持っているのだろう。体は沈まず、水の表面に立っていた。顔を少しだけ動かして、ヒウノとリトに続くよう促している。ふたりはおたがいの顔を見合せたのち、意を決してユユエのあと追った。

 水の上を歩くとは、奇妙で落ち着かないものだ。自然体でいるリトとユユエに対して、ヒウノの足取りはやや鈍い。薄氷を踏む思いである。いつ水に沈んでもおかしくない状況に、呼吸が浅くなる。そんな彼の様子に気づいたのか、少女がそっとヒウノの手を取った。


「大丈夫。こうすれば怖くない」


 優しげな声音で微笑む。少女のこんなにも柔らかな表情を見たのは久しぶりだった。「ありがとう」彼女への感謝の言葉を口にすると、体の動きが少しだけ軽くなった気がする。

 ふたりの様子を見て取ったのか、ユユエが力を行使した。水が音もなくそれに応える。三人の体は自然律に従って水中へと沈んでいった。



 *



 水の中に射し込む光は弱く、底までは見通せなかった。見えない先へ沈んでゆくのは、なんとも恐ろしい。女性の力によるものだろうか、水中にあっても息ができた。つないだ手から少女の温度が感じられる。暗色の水底へ向かう中、それが少年の心を少しだけ落ち着かせた。

 やがて、目指す場所の姿がぼんやりと見えてきた。多量の白い砂が堆積していて水の中が仄明るい。照らし出されるように姿を現したのは、巨大な飛行機械の残骸だ。そこは、長い歳月を経て水に没した西大陸の戒砂かいさだった。

 湖に潜ってから、ユユエはふたりのほうを一度も振り向いていない。彼女の向かう先に入口があるのだろう。声の届かない水の中で、ヒウノとリトは頷き合って彼女のあとを追った。



 第38話 終

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