第5話 少年の名、少女の名

 夜が明け、森に朝が訪れた。

 自室のベッドで目を覚ました少年は、やたらと重い体を起こし、鼻から空気を吸い込んだ。木の匂いにまじり、パンの焼ける香りがかすかに漂う。あれから自分がどうやって家に戻り、どうやって寝床についたのか、記憶がひどくぼんやりとしている。


(調査をすませたあと、空から光がやってきて、それから……)


 昨夜のできごとをたどり終えると、起きぬけのまなこにみるみる力が満ちてゆく。頭にかかっていた霞が晴れ、思い出したかのように痛みがやってきた。擦り傷を負った右腕には手当がしてある。患部を保護する布に血がにじんでいた。

 思考が完全に覚醒し、昨晩目にした光景が脳裏にはっきりとよみがえる。


(そうだ。あの女の子は──)


 自分はこうして朝を迎えられたが、あの少女はどうしただろう。そう思い、階下へ降りるはしごのあたりに目をやると、見慣れない顔がこちらを窺っていた。ふたりの視線が合う。少女の瞳には笑みが満ち、一方、少年の瞳には安堵の奥に不安の色がゆれた。


「おはよう。朝食にするから、あなたのお母さんに言われて呼びにきたの。ひとりで起きられる?」


 そう言って彼女は、はしごをのぼる。

 少年の母から借りたのか、真っ白な絹の上衣に身を包んでいた。しかし、サイズが合っておらず、襟首から少しだけ細い肩がのぞいている。

 はしごをのぼりきり「よいしょ」と床に手をつくと、ゆったりとした胸元をおさえながら立ち上がった。上衣だけで十分な丈があり、それ以外は身につけていない。膝から下はむき出しで裸足である。膏薬こうやくの塗られた白い布が、顔から手足までそこかしこに見えた。


「ありがとうございます。僕は大丈夫です。傷は、痛みますか?」


 少年はベッドから抜け出しながら、少女の怪我の程度を聞いてみた。


「ありがとう、気にかけてくれて。ひどく見えるかもしれないけれど、平気よ」


 ほがらかに答える少女。くったくのない、まぶしい笑顔だった。


「それより、自分の心配をしたほうがいいかもしれないわよ?」


 そう言って少女は、いたずらっぽい笑みを浮かべる。少年は伏し目がちに頷いた。少女が言わんとしていることを、よく知っているからだ。少女はおもむろに顔を近づけると、安心して、と目くばせし、少年の右手を両手で優しく包み込んだ。つないだ手から、彼女の温かさが伝わってくる。


「あの──」

「なぁに?」


 何やら言いたげな少年の様子を見て、少女は「ああ」と気づいた。


「ごめんなさい。名前、まだ言ってなかったわね」

「いえ。僕はヒウノ。ヒウノ・レンです」

「レン君、か──。ねえ、年はいくつ?」

「十六です」

「ふふっ、わたしのほうがひとつだけお姉さんね。けれどレン君、ずいぶん落ち着いているのね」


 名前で呼ばれることのほうが多かったが、別段気にとめず、少年は少女の名乗りを待つ。


「わたしは、リト・リリーシエ、です」

「リトさん、ですね」

「──うん、そう。リトよ」


 少女が言い淀んだのを、ヒウノは気がついていながら見ないふりをした。


「会ってすぐなのに、名前で呼ぶのは失礼でした?」

「ううん、そんなことないわ」


 少女は大きくかぶりを振る。


「そういう気遣いができるなんて、偉いのね」

「以前、親しい人に叱られて。それからは、初めての人でも名前で呼ぶようにしているんです」

「そうなの? じゃあ──」


 リトが何かを言いかけたそのとき、ふたりの腹がそろって鳴った。空腹の知らせである。


「ふふっ、おなかすいちゃった。行きましょう」

「はい。……ちょっと待ってください」


 少年は鞄に入っているノートを取りに、ベッドの脇へ戻った。そこでふと、話している間、自分の手がずっと少女に握られていたことに気がついた。右の手に柔らかな感触が残っている。ヒウノは彼女に親しみを感じつつ、昨夜の自身の行動は間違っていなかったのだと、先を歩く少女の背を見ながら思うのだった。



 *



 階下へ降りると、いつもと変わらない──正確には少女を一人加えた──朝の光景が広がっていた。両親の微笑みが少年を迎える。


「おはよう。さあ、手と顔を洗ってらっしゃい。朝ごはんを食べたあと、傷の具合を診てあげる」


 少年の母親が、小さい子にするように声をかけた。柔和な笑みを浮かべる顔にははりがあり、ずいぶんと若々しい。肩口で切りそろえられた髪をゆわえながら、椅子から立ち上がった。


「ぼくは、朝食の支度をすませますね」


 そう言ってキッチンへ向かったのは、少年の父親である。左の足がよくないのか、引きずるようにゆっくりとした足取りで歩いてゆく。木製の床を踏みしめる音に、金属質のものがまじる。膝から下を義肢が補っていた。


「わたし、手伝います」

「お客さんなのにすみません。ありがとうございます」

「いえ、このくらいは」


 少年を制するように、少女が父親のあとを追う。それを見送ると、母親は向き直り、音を立てないよう静かに、それでいてこれ以上ないほどきつく少年を抱き寄せた。


「こんなに心配させて、いけない子──」


 母の体は柔らかで、温かい。しかし、少年にとってそれは、どのような罰よりもつらく心が締めつけられた。謝ればよいというものではない。そう感じた少年は、母の胸に顔を埋め、ごめんなさい、と伝わるよう、気持ちを込めて抱きしめ返す。

 手に持っていたノートが、ばさりと床に落ちた。


(わたしも早く、ああしてあげたいな)


 少女は母子の愛情を、見ずとも感じ取っていた。そして、自分もいつかそうするのだと、ひとり微笑んだ。



 第5話 終

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