第10話 嘘

「レレン君でしたか?」


 ヒウノに声をかけられ、少女ははっとする。弟の名前を見つけて安堵すべきが、もうひとりの名前に動揺してしまった。それがどれほど不自然であったかは言うまでもない。しかし、胸のうちでは思考が激しくめぐった。


(誰なの? まるでレレンの家族のようにして。わたしたちとは違う部族の人。ユユエの名前、覚えておかないと)


「リトさん?」


 ページを見るともなしに見ていた少女は、ヒウノの呼びかけで意識が引き戻された。つとめて平静を装い頷きを返す。


「ええ、弟よ。間違いないわ」


 絞り出すように答えたが、きっと怪しまれた。そろりと顔をあげた少女は、そこに恐れていたものが待っておらず、誰にも聞こえないくらいに小さく息を吐いた。


「ここへ来ていたんですね。行き先をたどれそうで何よりです」

「ほんと、よかったわねぇ」


 ヒウノもシズも素直によろこんでくれている。リトはふたりにあわせて微笑んでみたが、頬にひきつりを感じずにはいられなかった。


「そろそろおひらきにしましょうか。リトちゃんはこっちね。うちの屋根裏、けっこう居心地いいのよ」

「泊まらせてもらえてありがとうございます。レン君も?」

「ヒュー君もときどき泊まっていくけれど……。そうね、一緒にどうかしら?」


 シズが冗談めかして言う。ヒウノに送る視線は、いたずらをしたくてたまらないと、実にわかりやすい。一方のリトは期待のまなざしを少年に向けている。


「僕は帰ります。船を戻さないといけませんし」

「そう……。また会える?」


 寂しさのまじった笑みを浮かべる少女に、少年は「明日も町に来るので、そのときに」と、彼女を安心させるように返した。リトの表情がいくぶんか和らぐ。

 それからしばらく、シズとヒウノは宿の仕事に精を出した。手伝いを申し出たリトだったが、「疲れているでしょ」と、やんわり断られた。初対面のシズでなくとも、誰の目にもまぶたを重そうにしているのが見て取れたからだ。



 *



 ひとり屋根裏にのぼった少女は、うつぶせになってベッドへ倒れ込む。不慣れな土地では知らずうちに疲れがたまるのだと、やってきた眠気を前に実感する。


(ふわふわする。おひさまのいい匂い……)


 心ではきちんと横にならなければ、と思いつつも体は言うことをきかない。すうすうと規則正しい自分の寝息が聞こえてくる。誰の目も気にしなくてよいのだ、このまま欲気にまかせてしまおう、と、心の働きを閉じかけたとき、声がふってきた。


「そのままでいいから聞いてちょうだい」


 声の主はシズとわかった。うっすらと目を開いたリトだったが、すぐに閉じてしまいそうだった。上下する胸はすでに眠りのリズムである。シズの言葉が続く。


「お姉さんと弟君、それともあなたの名前なのかしら? いったいどれが嘘なの?」


 シズの口調は鋭く、少女の全身に怖気が走る。目は冴え、呼吸は浅くなり、意識が完全に覚醒した。


「あたしはね、中央大陸とこっちを結ぶ定期船に乗っているの。仕事よ。でも、ここ数日の船の往来で、あなたの姿は見ていない。あたしだって、これまでに出会ったすべての人の顔を覚えているかどうかは、あやしいものだわ。でもね、見たことのない人がいるという異常にはすぐに気がつく。あたしの目にうつらなかった人は、この町にはいないはずなのよ」


 心地よい睡気はあとかたもなく消え去り、かわりにリトのもとへやってきたのは恐怖だった。眠ったふりをしてやりすごそうか。何を言われようが、起きていると知られなければ、どうとでもなる。シズには申し訳ないが、だますことだってときには必要なのだ。そうして無理やりに自身の考えを肯定し、少女は呼吸を整えた。


「あなたが何を思って、どこから、どうやって来たのかは聞かない。聞いても答えてくれないわよね。だから、ひとつだけ言っておくわ」


 少女には他の何より、彼女が「リト」と名前を口にしないのが恐ろしかった。心が遠くはなれているのを思い知らされる。体の震えが止まらない。唾液が喉を落ちる音がやたらと大きく聞こえる。

 足音でシズが近づいてくるのがわかった。かたわらに腰を下ろしたらしく、ベッドが沈む。かたくこわばった体はわずかたりとも動かせない。ここにいてはいけないのだと、少女は観念するように両の眼を閉じた。シズはそんなリトの様子に目を細め、彼女の髪を優しく撫でながら語りかけた。


「いつかでいいの。話せるときが来たら、あなたの口から本当のことを伝えてあげて。あの子はずっと待っているわ。そういう子だから。ね?」


 シズの思いに応えないわけにはいかなくなった。悪事への不慣れを、いまさらながら恨みたくなる。嘘を突きとおせばよいものを、少女はゆっくりと身を起こし彼女に向き直った。いっぱいの涙を浮かべ、けれど、それをこぼすまいと懸命にこらえながら、まっすぐに見つめ返す。


「ごめんなさいね。すっかり怖がらせちゃって」


 シズは怯え切った少女を、そっと抱きしめた。


「これで、はっきりしたわ」


 彼女の口調は穏やかで温かい。歳は親子ほどはなれていないはずが、シズの包容力には母のそれを感じてしまう。文字どおり、身も心もすべてが包み込まれる安らぎがあった。


「リトちゃんは嘘が下手な、とってもいい子。こんなに震えて。あたしたちに隠しごとをしているのを、いけないと思っている証拠だわ。そんな子が悪いことをするはずがないもの」


 リトの瞳から意に反して大粒の涙がこぼれ落ちた。泣きはらして、いっそ何もかも打ち明けてしまえれば。そんな衝動に駆られる少女であったが、感情を露わにしたが最後。もう、ひとりでこの先を歩むことはできないだろうと、あふれそうになる思いを心の奥底に押しとどめる。だが、ほんのひとときといえ、今は優しいぬくもりに溺れていたかった。



 *



 シズが去り気持ちが落ちつくと、少女のもとへ再び睡魔が忍び寄ってきた。


(あんなことがあったのに、こんなにも眠くなるなんて)


 リトは自分に呆れてしまう。今度こそ、と、争いがたい眠りに落ちかけたそのとき、強烈な違和感に襲われ少女は跳ね起きた。簡素なドアを開け放ち、屋根裏部屋を飛び出す。荒っぽく階段を駆け下る途中でバランスを崩し、手すりに身をあずける。はやる気持ちに体がついてきていなかった。ワンピースのすそが乱れたことなど、まったく意に介していない。転げ落ちるようにして階下へ降りると、宿の扉を乱暴に押しのけ、裸足のまま外へ出た。にらむように森の方角を見やる。


「どうしたの、リトちゃん。そんなに血相を変えて」

「レン君は?」

「ヒュー君なら、少し前に帰ったわよ」


 あくびまじりで答えるシズに、少女の語気が強まる。


「呼び戻せませんか。今すぐに」


 少女の様子にどこか不穏なものを感じ取ったシズは、数瞬思案したのち大声で母に問いかけた。


「ねえ、お母さん。前のホムラがみはいつだった?」

「ほむらがみ?」


 よくとおる大きな声に、何事かとシズの母親が表に出てくる。


「夜にあんまり大きな声を出すもんじゃないよ。迷惑になるでしょう」

「お説教はあとにしてちょうだい。それで、いつだった?」

「そうねえ。あれはあんたがまだ、お母さんの腰のあたりの背丈だったから──六、七歳のころだったはずよ」

「じゃあ、二十年くらい前ね……」


 リトは母娘が関係のない昔話を始めたのではないかと、気が急いてしかたがない。今にも泣き出しそうな顔でシズに詰め寄る。ただならぬ雰囲気の少女を落ち着かせようと、シズはその肩にそっと両手を添えた。


「ホムラ神というのは、森の生命を守るために起こる自然現象のことよ。若木が伸びやすくなるよう、決まった周期で火事が起こるの」

「森が、燃えるんですか?」

「ええ。枯れたり倒れたりした命の弱くなった木を燃やすだけだから、森はなくならないわ」

「じゃあ、森に住んでいるレン君たちはどうなるんです?」


 火から来る連想で、リトの表情はさらに思い詰めたものに変わる。そんな少女をなだめるように、シズは説明を続けた。


「落ち着いて。ヒュー君のお父さんは森に詳しい人でね。確か、七十から百年周期と教えてもらった覚えがあるの。少なくとも、あと五十年はホムラ神は起こらないはずよ。そもそも、危険が迫っていたら、森に住むなんてこと、しないでしょう? ずっと昔からその周期は変わっていないようだから、安心して」

「そう、ですか……」


 一応でも納得したのか、俯いていた少女は顔を上げ、ヒウノが去った方角に視線を戻した。


「嘘──」


 信じられない。いや、信じたくない、が正しいだろうか。シンプルなその思いをのせた短いつぶやきとともに、リトの双眸がこれ以上ないほどに大きく開かれた。そこに、ぼうっと赤い色がゆれる。音も風も、何もかもが息を潜めてしまったような、そんな錯覚がリトをのみ込んだ。

 少女の見る先で、森が、燃えていた。



 第10話 終

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