第34話 僕の名前を呼んで
ベルが目を覚ますと、そこにはもう見慣れてしまった別世界が広がっていた。星一つない真っ暗な夜空の下、どこまでも続く透き通った湖の水面の上でゆっくりと立ち上がる。振り返れば、少し離れたところに緋色の王様と《神様》が倒れていた。
「ああ、びっくりした! ねえちょっと、ボクの邪魔しないでよ! これからもっとみんなを不幸にしなくちゃいけないのにさあ!」
《神様》はベルが立ち上がったすぐ後に目覚めて、ソルの顔で頰を膨らませる。その表情があまりにソルらしくなくて、ベルは思わず拳を握りしめた。
「ここに連れてくればボクを止められるって思ったの? だったらキミはおばかさんだなあ! ボクみたいな《願いそのもの》の存在は、キミみたいな人間の作り出した世界に勝手に出入りできるんだよ。人間は簡単にここから出られないけど、ボクはそうじゃない! 分かったら、キミはここで大人しくしててね、バイバイ!」
自分を鋭く睨みつけるベルの眼差しに嘲るような笑みを返して、《神様》は手を降る。そして真っ黒な翼を羽ばたかせて飛び立とうとして、ぴたりと動きを止めた。ベルに、呼ばれたから。
「ソル」
「え……?」
戸惑う《神様》に、正確には《神様》の中にいるソルに、ベルは静かに呼びかける。
「ここから出て行っても良い。ただ、お前がこの世界から無理矢理抜け出して私を置いていけば、私は現実逃避の代償を払って死ぬだろう。お前はそれで良いのか、ソル」
「ダメだ!」
即答した《神様》の表情にはあの歪な幼さはなく、間違いなくソルの顔をしていた。彼は勢いよくベルに駆け寄って、責めるようにまくしたてる。
「ベルが死ぬなんて許さない! 俺が生きているうちは、何があってもベルを守るって決めたんだ。だから」
そこで彼は胸を押さえて苦しみだした。ベルから離れるように後ずさって、憎悪の眼差しを誰にともなく向ける。
「キミとボクはもうほとんど融合したはずでしょ!? なんで今更出てくるのさ!? ベルのために世界中の幸せを奪い取る、そしたらベルは幸せになれるってキミが言ったんだろ? だからキミはボクと一つになったんじゃないか! これはキミの願いなんだから、邪魔しないでよ!」
《神様》の怒りも虚しく、その背中の翼の羽はまるで花びらが散り降りるかのようにひらひらと抜け落ちていった。《神様》はイライラと頭を掻き毟ると、未だ目を覚まさない王様に駆け寄ってその体を揺さぶる。
「そう、キミがその気ならボクだって考えがあるよ! ねえ、王様、起きて! ほら、ボクにもっと願いをちょうだい、そしたらボクはもっと強くなれるから……!」
ところが、《神様》が倒れる王様の体を揺さぶった瞬間、王様の体はドボンと湖に沈んだ。《神様》が絶句している間にも、王様の体はどんどん湖の底へ引きずり込まれていく。そして、ベルの心を映したものであるはずの湖の様子がその瞬間に一変した。
「これは……!」
ベルが、信じられないというように目を見開く。透き通った透明の湖は、みるみるうちに真っ赤に染まっていた。
「彼はずっと、逃げたかったんですよ」
背後から聞き覚えのある声がして、ベルはそちらを向く。そこには、いつものように右手に分厚い本を持ったダンが立っていた。もう、灰色の翼は背中にない。
「この湖を自分のものにして、彼は永遠に現実逃避をするつもりです。自分の罪から目を逸らして、ね。このままでは、この世界が彼に乗っ取られます」
「そんな!」
《神様》はダンの言葉に取り乱す。今までずっと、楽しそうに笑っていた《神様》が、今は泣きそうに顔を歪ませていた。
「それじゃあボクに願ってくれなくなっちゃうじゃん! 困るよ、そんなの!」
彼はダンにすがりついたが、ダンは鬱陶しそうにその体を突き放す。
「こちらとしては、貴方の力が弱まってくれるのは喜ばしいですよ。まあ、緋色の王様が逃げ続けるのをよしとするわけにもいきませんが……」
ため息をついて、ダンは空を見上げた。意味ありげなその仕草に、ベルも《神様》も思わずつられて上を向く。その瞬間、まばゆい光が真っ暗な空を明るく照らした。光の中から何かがまっすぐに落ちてくる。
「王様!」
その声を聞いて、ベルは落ちてくるものの正体に気が付いた。
「ニック!」
刹那、ベルとニックの目が合う。互いの瞳に宿った決意を見て、二人は自分のすべきことを知った。
まるで流れ星のように空から降ってきたニックは、そのままの勢いで真っ赤な湖へと水しぶき一つあげずに飛び込む。後にはただ、大きな波紋が残されるばかりだった。
けれど、今の湖が緋色の王様の心を映したものならば、波紋を作るということがどれだけ大きな意味を持つのか、ベルはよく理解していた。そもそも、ここはベルの心を映した世界なのだから。
「こんな……こんなことになるなんて」
《神様》は肉体を得て初めて全く自分の予想外の出来事に遭遇して、その場に崩れ落ちる。そんな彼にゆっくりと近づいて、ベルは優しく手を差し伸べた。
「少し、話をしないか。ソル」
ソル、という名前に《神様》はベルをきっと睨みつけると、そっぽを向く。
「ボクは《神様》だ。ソルなんて子はもういないよ」
その言葉とは裏腹に、彼はベルの手をしっかりと握りしめていて。それがなんだか可愛らしくて、ずっと緊張していたにも関わらず、気づけばベルは笑っていた。
「じゃあ、この手は?」
言われてやっと自分の行動に気づいたらしく、《神様》は真っ赤になってその手を振り払う。
「これは別に! まあ、話くらいなら、聞いてあげても、いい、けど」
ベルと話がしたいソルと拒絶したい《神様》がせめぎあって、なんとも複雑な反応を返す彼を、ベルは少し微笑ましい気持ちで見つめていたのだった。
※※※
どこまでも、どこまでも落ちていく。真っ赤な水の中は、温かくて優しくて、ずっとここに沈んでいたい、と思うほど居心地が良かった。あとは、ここに姉さんがいてくれたら完璧なのに。
「あらあら、何を言っているのかしら。私は、ここにいるじゃない」
そのとき、ずっと聞きたかったあの綺麗な声がして、僕は思わず目を開く。そこには、美しい赤い髪を漂わせて微笑む姉さんの姿。
「姉さん……!」
夢にまで見た姉さんが、確かに目の前にいた。僕と一緒にスラムにいたあの頃より、ずっと綺麗になって。
「ねえ、姉さんは僕を愛しているよね? 僕を捨てたのは、何かの間違いだったんだよね? ねえ、ねえ、そうでしょう!?」
僕は姉さんにすがりついて、必死に訴える。そんな僕を姉さんはぎゅっと抱きしめた。
「当たり前でしょう? 貴方は私の大切な弟。何があっても愛しているし、貴方を捨てたのも不幸な事故があっただけ。捨てるつもりなんて本当はなかったのよ」
姉さんは、まさに僕がずっと言って欲しかったことを言ってくれる。ああ、良かった。姉さんは、僕が大好きだった姉さんのままだった。
「ね、このままずっと二人でここにいましょう。ここにいれば、ずっと幸せでいられるわ」
そうだね、姉さん。僕も、ずっとここにいたいよ。僕は頷こうとして、あることに気づく。
「そうだ、姉さん。僕の名前を呼んでよ。僕、うっかり忘れちゃったんだ、僕の名前。姉さん以外、誰も呼んでくれなかったから……。だから、ね? 僕の名前、呼んで」
その瞬間、姉さんの動きが止まった。まるで人形の糸が切れたようにだらりと俯いた姉さんの様子に、僕は不安になる。
「姉さん? どうしたの、僕の名前、姉さんも忘れちゃった? ねえ、返事をしてよ、姉さん、姉さん!」
いくら揺さぶっても、姉さんは返事をしない。もう薄々分かっていた。今目の前にいる姉さんは、僕の心の中にいた幻だってこと。でも、それでもいい。これ以上、辛い思いはしたくないから。本当のことを知るくらいなら、嘘でも夢に溺れていたい。だから、姉さん、返事をして?
「王様!」
突然、水面の方からまばゆい光が差し込む。そのあまりの眩しさに、僕は思わず上を見上げた。誰かが、僕を呼んでいる声がする。そしてそれは、姉さんの幻をかき消すかのように、僕の前に飛び込んできた。
「■■!」
夜空みたいな紺色の髪、僕と同じ赤い瞳。見覚えのある青年が、必死に何かを叫んでいる。なぜだかうまく聞き取れないその言葉が、不思議と僕の心を揺さぶった。
「■■!」
彼は必死に僕へと手を伸ばしながら、何度も叫ぶ。気づけば僕も、彼の方へ必死に近づこうとしていた。彼の手と僕の手が触れた瞬間、もう一度彼がその言葉を告げる。今度は、まるで宝物の話をするように、優しい声で。
「■■!」
それが僕の名前だと気づいた瞬間、僕と彼の体は真っ白な光に包まれる。
「思い出して。君の名前を」
光の向こうで、白い翼を持った天使のような青年が微笑むのが見えた。
「思い出してください。貴方が本当に願っていたことを」
僕の手を握って、夜空色の髪の青年が——いいや、ニックが笑う。その言葉に背中を押されて、僕はずっと忘れていた記憶に向き合おうとしていた。
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