第17話 君の生きる価値

「貴方達、馬鹿じゃないの!?」


 ブラッディが今まで見たこともないような剣幕で、ランは二人に怒鳴りつけた。ベルもブラッディも無理やり湖から引きずり出された衝撃でしばらく目をぱちくりとさせていたが、やがてブラッディがはっとしてランに詰め寄る。


「なんでそっとしておいてくれなかったの!? 僕はお母様と一緒にいたかったのに!」

「あれが本当に貴方のお母様だと思うの!? 違うって分かっているでしょう!」

「本物かどうかなんてどうだっていいだろ!? あのお母様はちゃんと僕を見てくれる。名前を呼んでくれるんだ! 本物よりよっぽど良いよ!」


 パーン!


 何かに取り憑かれたかのようにまくし立てたブラッディは、次の瞬間左頬に強い衝撃を感じて目を剥いた。静かな世界にランの平手打ちの音が延々と響き渡る。


「貴方の気持ちなんか全然分からないわ! 私は国中の人に見守られていたし、みんな私の名前を愛おしそうに呼んでくれた。だから、貴方の気持ちなんか想像もできない」


 心無い言葉を言い放つランに、ブラッディは思わず拳を握りしめた。フードが取れて露わになった真っ赤な瞳がみるみるうちに憎しみに染まっていく。彼はランに呪いの言葉を吐こうとしたが、彼女が次の言葉を告げる方が早かった。


「でも、これだけははっきり言える。貴方のお母様は貴方のことを見てくれなかったかもしれないけれど、私は生まれてから十七年間、ずっと貴方のことを見てきたわ! 人生で一番たくさん呼んだのは間違いなく貴方の名前よ、ブラッディ。

 国中に愛されたこの私が貴方を愛しているんだから、貴方も国中に愛されているのと同じでしょう? お母様に愛されなかったくらいでうじうじするのはやめなさいよ!」


 ブラッディはそれを聞いて頭が真っ白になった。今、何か重大なことを聞いた気がする。彼女はさらっと言っていたが。


「ブラッディ? 聞いているの?」


 反応がないことに頬を膨らませたランに、ブラッディは恐る恐る確認した。


「えーっと、今、なんて言いました?」

「なんで突然丁寧語になるのよ」

「ちょーっと心の動揺が激しくてですね……! プリンセス・ラン、なんか今変なこと言いませんでした?」


 ランは首をかしげる。彼女には今のブラッディの方がよっぽど変なことを言っているように思えた。いつものブラッディの憎たらしい口調が崩壊している。


「なに? 私は今大切なことを言ったのよ! 真剣に聞いていた? 私が、その、あれ、えっと……!」

「なんか、愛しているとかもごもご」


 怒りながら先ほど告げた言葉をもう一度告げようとして、彼女は自分が勢いに任せて何を口走ったかに気がついた。問題の部分を復唱しようとしたブラッディの口を慌てて塞ぐ。


「ちょ、苦しいって!」

「やめて、もう一回言わないで! これはその、勢いで言ってしまったけれど、あー!」

「ねえ顔真っ赤にするのやめてくれないかな!?」


 りんごのように顔を真っ赤にしてうつむくランを見ているうちに、ブラッディまで恥ずかしさのあまり真っ赤になってしまった。それは平常時であればとても微笑ましい光景ではあったのだが。二人は自分たちの立つ水面が徐々に波打ってきていることに気づかなかった。


「……もういい」


 ずっと黙り込んでいたベルの声が聞こえて、二人は彼を見た。しばらく二人だけの世界に入り込んでしまっていたランとブラッディは、そのときようやく気がついた。ベルの瞳が涙に濡れていることに。


「お前たちだけ帰ればいい! 私はここに残る。お前たちはさっさと王都に帰れ!」


 いつも穏やかで優しかったベルの瞳に浮かぶ憎しみを見て、ランは息を飲んだ。それはソルが自分たちに向けたあのギラギラとした鋭い刃のような眼差しともまた違う。もっとずっとドロドロしていて、底のない闇がそこにはあった。


「ベル、でも」

「私を王都に連れて帰りたい? そんなの嘘だろう! 私がいなくたってお前たちは二人で幸せに暮らしていけるじゃないか。

 ラン、お前は自分たちだけが王都でのうのうと暮らしているから、私やソルに対して罪悪感があるんだろう。けれど、私たちに許してもらえれば、心置きなく幸せに浸れる。だからここに来た。違うか? お前は結局自分が救われたいだけなんだろう!?」


 あまりにも強いその憎しみに、ランもブラッディも何も言えなかった。そうじゃない、とすぐに言えない自分自身が嫌になって、ランは唇を噛む。そんな二人の様子に、ベルは自嘲気味に笑った。


「ほら、やっぱりそうなんじゃないか。いいよ、私は別にお前たちに幸せを奪い取られたとは思っていない。早く王都に帰って、いつまでも幸せにくらしてくれ。

 私はもう、お前たちを見ているのに耐えられないんだ。お前たちの間にある十年の絆を私が得ることはできない。私がいても邪魔になるだけだよ」


 涙をポロポロ零しながら叫ぶベルの姿はあまりに痛々しくて、ランもブラッディもいたたまれない気持ちになる。今、自分たちが何を言っても彼には届かない気がした。自分たち自身、今自分の口から出た言葉を言い訳ではないと確信することはできそうもないのだから。でも、だからといってベルをここに置いていくことは出来るはずもなかった。


 誰も何も言えないまま、時間だけが過ぎていく。少しずつ、でも確かに彼らの立つ湖の水面は激しく波立ってきていた。


 救いの言葉を投げかけたのは、三人のうちの誰でもなかった。


「じゃあ、君は現実逃避をし続けるのかい」


 突然穏やかな男の声が聞こえて、三人は一斉に振り返った。そこにはキラキラと優しく輝く金髪の男が立っている。


「グリュック……!」


 ベルが目を見開いて彼の名前を呼んだ。ランは、二人を救うための方法を教えてくれた彼の存在をすっかり忘れていたことを思い出す。いつのまに姿を消していたのか。


「別に君がそれを願うのなら、それでも良いんだ。でも、君はそれで本当に後悔しないのかい」


 そう問いかけられて、ベルはいつか、ダンと名乗る怪しげな闇商人にりんごをもらったときのことを思い出す。


「以前、聞かれたことがある。『貴方はどんな願いを抱いて、この場所で生き続けているのですか』と。『希望など一欠片もありはしないこのスラムで、生き続けることに意味はありますか』とも聞かれた。

 そのとき私はこう答えた。『分からないから、まだ死ねない。自分に生きる価値がないと確信するその時までは、生き抜くと決めたから』。

 でも、彼らを見ていて思ったんだ。私には未来なんかない。帰るべき家も、待っていてくれる家族もない。ここでドブネズミのように這いつくばって生きたとして……それは本当に、母上が望んだ生き方なのか?」


 グリュックは悲しげに目を伏せるだけ。心なしか、その体が今にも消えそうに見えた。


「私に生きる価値なんかあるのか? このスラムだけを見れば、私はまだなんとか小さな幸せとか、希望とか、そういうものに目を向けていられたけれど。王都に帰ったって、私には何も残っていないじゃないか。盗みを働いて、時々捕まって殴られたりして、そうやって辛い思いをしながら生き延びた先に何がある? なあ、教えてくれ! あの日私を生かしたのはお前だろう!?」


 それを聞いて、グリュックは今まで誰にも見せたことのないような怖い顔をした。激しい怒りをたたえた瞳で、ベルの肩を掴む。


「それは違う! あの日、選んだのは君だろう! 生きたいと願ったのは君だ! その選択の責任を他人に押し付けようとするんじゃない!」


 その瞬間、グリュックの姿が蜃気楼のように揺らいだ。彼は目を丸くして、慌ててベルから離れる。そして悲しそうに首を振った。


「君はもう、願ってくれていないのだね。私はグリュック幸福。《誰かを愛し、その幸せを願った人々の願い》そのもの。君がそれを望まなくなったのなら、もう消えるしかない」


 消えかけたグリュックを見ても、ベルは悲しそうなそぶりさえ見せなかった。ただ憎しみに染まった瞳で、彼の消えゆく様を見つめるだけ。


「ねえ、君が現実から逃げ続けるならそれでもいい。でも、思い出して。君がいなくなったら、ソルとキティは誰が助けてやれるんだい?」


 その言葉を最後に、金色の淡い光だけを残してグリュックは消えた。ソルとキティ、という名前を聞いてベルはハッとする。


「ソル……キティ……!」


 ランがゆっくりとベルに近づいた。その手を優しく握って、申し訳なさそうに目を伏せる。


「私たちのことは憎んでもいい。確かに私たちと貴方の間には、十年もの空白がある。それは簡単に埋められるものじゃないわ。でも、貴方はソルとキティとずっと一緒に生きてきたんでしょう。その絆さえ否定して、生きている価値なんかないって言ってしまうのは……あまりに悲しいことだわ」


 ベルはその場に崩れ落ちた。涙が溢れて止まらない。思えば、両親が死んでから今まで一度も泣いたことはなかったのだ。顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくるベルを、ランとブラッディが優しく見守っていた。


 気づけば、湖の水面は穏やかになり、どこからか優しい風が吹き過ぎていった。

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