第16話 「これで良いわけないでしょう!?」
ブラッディが目を覚ますと、そこには明らかに先ほどまでいた場所とは違う世界が広がっていた。星一つない真っ暗な空の下、終わりの見えない湖の水面に彼は倒れていたのだ。隣を見れば、気を失ったままのランの姿がある。あの化け物の姿はどこにもなかった。どうやら逃げることに成功したらしい。
「もしかしてこれ、ベルの現実逃避……?」
そう呟いて、ブラッディはベルの姿が見えないことに気づいた。慌てて辺りを見回して、すぐ近くで水面が不自然に揺らいでいるのを見つける。ゆっくりと水面に波紋が広がる様はとても美しかったが、それはまるで、ついさっきそこに何かが沈んだかのように見えた。人間ほどの大きさの何かが。
この世界のことはよくわからない。なぜ水面の上に立てているのか分からないし、この水に飛び込んで無事でいられる保証もない。本来、ブラッディはそういう不確定な要素を孕んだ状況で行動を起こしたりしないタイプだ。無駄死にしたくはないから。でも、このときばかりは考えるより先に体が動いていた。彼は水面に浮かぶ波紋の中心に向かって思いっきり飛び込んだ。
パリーン!
水に飛び込んだとは思えない音が静かな世界に響き渡る。それはガラスを割ったような音だったが、飛び込んだときに痛みはなかった。不思議なことに、水の中で息をすることもできる。ただ、なぜか急に泣きたい気持ちになった。水の中で、必死にベルを探そうとする。ずっと深いところでベルの黒髪が揺らぐのが見えた。近づこうとしたそのとき、目の前に見覚えのある赤い髪が飛び込んできた。そこに現れた人を見て、ブラッディは目を見開いた。
「お母様……?」
「そうよ。ブラッディ」
真っ赤な髪と瞳を持った、優しい笑顔を浮かべるその女性に呼ばれて、ブラッディは涙が溢れるのを抑えられなかった。水の中で泣くというのもおかしな話だったが、確かに彼は泣いていた。その涙は誰にも見られることなく、湖の水と混ざってしまったけれど。
「嘘だ。あんたはお母様じゃない。お母様は生まれたばかりの僕の赤い瞳を見て、おかしくなったんだもん。成長して生えてきた髪が真っ赤なのを見て、狂っちゃったんだもん。僕のことを弟だと思い込んで、名前を付けてさえくれなかった。だから、お母様は僕の名前を呼んだりしないよ」
水の中で話すことができることに疑問を持つ余裕さえ、今の彼には残っていなかった。嘘だ、と目の前の母親を否定しながら、ゆっくりと彼女に近づいてしまう自分を抑えられない。目の前の女性が本物の母親でないことはよく分かっていたけれど、彼女は自分が夢に思い描いた理想の母親であることに気づいてしまったから。
「貴方のことを見てあげられなくて、ごめんなさい。でももう大丈夫。ここで一緒に暮らしましょう。今度はちゃんと、母と息子として」
その言葉をどれほど欲していただろうか! 何度も彼女がちゃんと自分を弟ではなく息子として認識してくれる日を夢見ていた。彼女に弟と呼ばれ、彼女の一人息子の話を聞かされる日々は苦しくて悲しくて。ねえお母様、貴方の息子は一人じゃないんだよ。だからお願い、僕のことも見てよ。そう訴えかけたくて、でもそれを言えば彼女はより精神を病んでいくことも分かっていて。
あんまりにも辛いから、スラムに来て兄に会うつもりだった。母が死の間際に託してきた手紙の内容は知らないが、それを渡して、そして兄を殺せれば、と。兄を殺したところで何が変わるわけでもない。自分は母に愛されなかった、その事実は変わらないのだ。ただ、側にいなくても母の愛を一身に受けていた兄のことが、ひたすら許せないだけだった。
でも。もういいかな、と思えてしまった。これが本物の母親でないとしても、理想の母親であることに間違いはないのだから。この人と一緒に、永遠にこの湖の底で漂っていられれば幸せな気がする。最悪な現実から目を背けて、傷つくことのない夢に溺れていたい。
視界の隅で、ベルの真っ黒な髪が揺らぐのが見えた。彼も、大切な誰かを水中に見ているらしい。今までブラッディに見せていた大人びた表情は消えて、母親に甘える子どものような顔を浮かべていた。
これでいいんだ。僕もベルも幸せなんだから。現実なんか見る必要ない。どんどん、水面が遠くなっていく。暗い暗い湖の底に飲み込まれていきそうになったそのとき。
「これで良いわけないでしょう!?」
眩いほどの光とともに、聞き覚えのある女の子の声が耳に飛び込んできた。同時に静かだった湖の中に激しい水流が生まれる。ブラッディとベルが逃げる間も無く、水流は二人を飲み込んで水面に押し上げた。
ザッバーン!
豪快な水しぶきとともに、二人は湖から飛び出てくる。水面の上に叩きつけられてゆっくり起き上がれば、仁王立ちしたランが怖い顔で二人を睨みつけていた。
※※※
「……ン、ラン! 起きて、早くしないと手遅れになってしまう」
聞き覚えのない男の声とともに揺さぶられて、ランはゆっくりと目を開く。目の前には見知らぬ世界が広がっていて、彼女は大いに戸惑った。
「どこ、ここ……!?」
「ベルの現実逃避のための世界だよ」
横を見ると自分を起こした声の主と思われる金髪の男がいて、ランは小さく悲鳴をあげて後ずさりした。
「誰!?」
「怖がらないで。私はグリュック。ベルは私のことを話さなかったかな?」
そう聞かれて彼女はベルの話を思い出す。確かにその名前は聞いた記憶があった。
「ベルが初めて現実逃避をしたときにいたっていう……」
「そう。あの後、私はどんどん力を失ってしまってね。実体化することができなくて、このスラムで何が起きていたかも知らなかったんだ。でも、君たちが来てもう一度願ってくれたから、こうして現れることができるようになった」
グリュックの話はよくわからなかったが、その穏やかな声や柔らかな微笑みから、ランは無意識に彼を信頼し始めていた。そういう不思議な魅力がこの男にはあったのだ。
「とはいえ、長い間実体化していることはまだできなくてね。ベルたちを救ってあげることも私にはできないんだ。君が二人を救うしかない」
そう言われて、ランは二人がどこにも見当たらないことにようやく思い当たった。
「二人はどこ!? 救うって、二人はあの化け物に捕まったの!?」
「いいや、三人でここに逃げてきたんだよ。ただ、ベルは現実逃避をしすぎたからね。深みにはまって戻って来られなくなってしまったんだ。君の友達の男の子が連れ戻そうとしてくれたけれど、彼も深く傷ついていたみたいだね。現実に戻ることを拒否し始めている」
グリュックは水面を指差す。ランがそこを覗き込むと、透明な水のずっとずっと深いところに、フードが外れて赤い髪が露わになったブラッディと真っ黒な髪を漂わせたベルの姿が見えた。二人がどういう顔をしているかは上からでは見えなかったが、水面に上がってくる気配は一向にない。むしろゆっくりと沈んでいっている様子に、ランは慌てて飛び込もうとした。
「ちょっと待って!」
「止めないで! 私、二人を取り戻さなくちゃ」
「それはそうなんだけど、中に入るのは危険だよ。だいたい、君は少年二人を抱いて泳げるほどの体力があるのかい」
「うっ」
痛いところを突かれてランは顔を歪める。コロコロと表情を変える彼女の様子が面白かったのか、グリュックはクスクスと笑った。
「ここは願いによって作られた場所だ。どこよりも願いの力が強く働くんだよ。だから私もここでは容易に姿を現すことができる。君がすべきことはたった一つ。願えば良いんだよ。二人が戻ってくることを、ね」
「分かったわ。私、みんなで一緒に王都に帰りたいの。昔みたいにみんなで仲良く幸せに暮らしたいのよ。だから、こんなところで現実逃避なんかされたら困るわ! 早く帰ってきなさいよ!」
彼女の言葉に呼応するように、真っ暗な空から流れ星のように光が降り注いでくる。それは彼女の体に集まって、真っ暗な水底さえ明るく照らした。
「これでいいんだ」
ブラッディの幸せそうな、ふやけた声が聞こえてきて。ランの堪忍袋の緒がぶちんと切れる。
「これで良いわけないでしょう!?」
彼女の怒りの言葉とともに、眩い光が二人に向かって放たれて。水面に無理やり押し上げられた二人の呆然とする顔を、ランは仁王立ちをして睨みつけたのだった。
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