第3話 八方塞がりのピクニック
あれはもう十年も前のことだった。死にかけの子供なんか見慣れていたはずなのに、そこに倒れる血塗れの少年の前で足を止めてしまったのはどうしてだったのか。今でもよく分からない。
少年は誰かが近寄ってきたことに気づくとすぐに顔を上げた。本当は指一本動かすのも辛かっただろうに、必死にこちらを睨みつけるその瞳を見て思わず息を飲んだことを覚えている。
一目で分かった。この子なら、あの人の願いを叶えられる。ずっと探し続けていたのはこの子だったのだと確信した。早くあの人の元に連れて行かなくては、と少年に手を差し伸べる。
「生きたいかい? 俺と一緒に来るなら、助けてあげるよ」
少年に生きる意志があれば、その手に縋り付いてくるはずだった。まだ十歳にも満たない子供だ、生き抜くためには誰かに守られる他ない。けれど、少年は差し伸べられたその手を弱々しく、けれどはっきりと振り払った。
「たすけなんかいらない。だれもしんじたりなんかするもんか。ぼくはぼくだけの力で、生きぬいてみせる」
血に汚れた髪の合間から見える紫の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜く。子供らしい輝きなどどこにもないその目にあったのは、強烈な意志と余りにも深い絶望、そして埋められない喪失感と孤独感。自分のことでもないのに、彼の内心が手に取るように分かってしまった。少年の姿がかつての自分そのものに見えて、いてもたってもいられなくて。
「そうか。じゃあ、ここで死ぬわけにゃいかねえよな」
気づけば、少年を抱きかかえて歩き出していた。彼はしばらくバタバタと抗議の意を示していたが、やがて力尽きて気を失う。眠るその顔は余りにもあどけなくて、純粋で、血塗れなのに綺麗だと思えた。
「きっといつか、こいつを助けたことを後悔するんだろうな」
自嘲気味に呟きながら、これからのことを考える。この子を隠さなくては。あの人の赤に飲み込まれたら、この小さな魂はたちまち壊れてしまう。願わくば、この子が一生あの人と関わることなく生きていけたらいい。そんなことを願う資格などないと知っていたけれど、柄にもなく願っていた。
※※※
「緋色の王様とは、誰のことなんだ?」
その途端、ニックの表情が凍りついた。
「お前、どこでそれを聞いた」
深刻な調子で問いかけられて、ベルは戸惑う。
「スラムのことで知らないことは一つもないはずなんじゃなかったのか? 情報屋さん」
ニックはこのスラムで起きることの全てを知る情報屋だ。スラムの西の端である男がくしゃみをしたことも、東の端である女があくびをしたことも知っている。そんなニックが、明らかになんらかのトラブルに関係していたであろうあの少年について知らないはずがなかった。ベルは少しの不信感を滲ませながら説明する。
「私の縄張りに入り込んできた少年が最後に遺した言葉が、緋色の王様を止めてというものだった。私は彼の願いを叶えてやりたい。緋色の王様について教えてくれ」
ニックは長い前髪で隠れた左目を抑えながら怖い顔でしばらく考え込んでいたが、やがて首を振って真っ直ぐにベルを見た。
「緋色の王様のことは教えられない」
「りんご四つでは足りないということか」
「違う」
彼はゆっくりと、まるで息子に教えさとす父親のようにベルの両肩に手を置く。自分より背の高いニックの目を見ようとベルが見上げれば、見たこともない泣きそうな顔をしたニックがそこにいた。
「頼む。お前がちょっとでも助けてもらった恩を感じてくれてるなら、もう二度とそのことは口にするな」
「でも……」
抗議しようと口を開いたベルを黙らせるかのように、ニックはその年齢に見合わない華奢な体を抱きしめた。
「緋色の王様には関わるな。それ以外のことならなんでもりんご四つで教えてやるから、誰かの遺言なんか忘れちまえ。なあ、頼むよ……」
その体が小さく震えているのが分かって、ベルはそれ以上何も言えなくなった。命の恩人の懇願を無視できるほどベルは冷徹ではなかったし、怖いものなど何もないのだろうと思っていた彼の怯える姿を見て、自分が関わろうとしている事柄が想像以上に危険なのかもしれないと尻込みしたのだ。
「……分かった。この件は忘れるよ」
その答えを聞いて、ニックは心底安堵した表情を浮かべる。
「いい子だ」
「子供扱いするな!」
わしゃわしゃと頭を撫でてくるので、ベルはなんとか振り払って彼から離れた。そんな二人のやりとりはもういつも通りの雰囲気で、遠巻きに様子を見守っていたソルとキティも安心して近寄ってくる。それを見てニックはベルに投げつけられたりんごを三つ手に取るとベル達一人一人に投げ渡した。
「情報はやれねえから、報酬は返す。どうせ数日間何にも食べてねえんだろ? ありがたく食えよな」
「よっしゃ!」
「やったあ!」
ソルとキティがものすごい勢いでりんごをかじるのを見て、ベルもりんごを一口かじる。久しぶりに口にする食べ物はやはり格別で、安物のりんごとは思えないほど美味しく感じた。
「だったらもう一つのりんごも返してくれ」
「嫌だね。これは『教えられないと教えてやった報酬』だ」
涼しい顔でニックは残ったりんごにかじりつく。ゴミ溜めでピクニックまがいの行為をしているなど端から見たら滑稽だろうが、本人たちにとってはなかなか幸せなひとときだった。
そうしてりんごを食べながら談笑して楽しい時間を過ごした後、隠れ家への帰路につきながらベルは頭を抱える。スラムでニックから得られない情報は、他のどこからも得られはしない。あの少年の願いを叶えるための手がかりはどこにもなかった。
「緋色の王様、か……」
空を見上げれば、沈みかけた太陽が真っ赤に世界を染め上げていた。
※※※
「こんな空の下で死ぬなんて、可哀想な人だなあ。最後まで、赤からは逃れられなかったんだね」
血のように真っ赤な空を見上げて彼は呟く。真っ黒いローブのフードに隠されて、その表情はよく見えない。ただ、その声には嘲りの色とすすり泣くような調子が感じられた。
「悲しんでなんかやるもんか。最後まで僕のこと、一度だって見なかったんだから。赤い空に吸い込まれて消えちゃえばいいんだ」
立派な屋敷のバルコニーからは真っ赤な空も美しい王都もよく見える。いつもは活気に満ちた街並みは静まり返り、至る所で次々と黒い旗が上がり始めていた。
「仕方がないから、最期のお願いは叶えてあげるよ。感謝してよね」
バルコニーと繋がる部屋のベッドには、一人の女性が眠っている。彼がどれだけ語りかけても、彼女が返事をすることは決して無い。改めて彼女の死を実感して、彼の頬を涙が伝う。
「はあ、もう最悪。なんで泣いてるの、僕」
後から後から溢れる涙をぬぐうのに、その顔を隠すフードは邪魔で仕方がない。
「誰も見てないし、良いよね」
彼は鬱陶しげにフードを外した。その下から露わになった彼の髪と瞳は、空の色と同じ血のような赤に染まっている。
「僕の髪が赤くなかったら、僕の目が青かったなら、僕のことを見てくれたの?」
そんな夢物語を聞いてくれる人はどこにもいない。答えの無い静寂は彼の心の隙間を大きくしていく。
「そんなに赤が好きなら、全部赤に染めてあげるからさ。大丈夫、手紙はちゃんと渡すよ。渡しさえすれば、殺しちゃっても良いよね」
赤い瞳からポロポロ涙を零しながら、無邪気な声で彼は問いかけた。震えるその体を抱きしめる人はどこにもいない。
「早くスラムに行かなくちゃね。壁を越えて、会いに行くんだ。僕の幸せを奪った報い、必ず受けさせてやるんだから。ねえ、早く会いたいね、お兄ちゃん?」
彼の手にはくしゃくしゃに握られた手紙。その宛名は彼の涙で滲んで、もう誰にも読めなくなっていた。
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