第37話 本当の願い

「もう、終わりにしよう。《神様》」


 マナの言葉に、《神様》と呼ばれた怪物は怒り狂い、声にならない叫びを上げる。そこには、これまで願いを踏みにじられてきた数えきれないほどの人々の憎しみや恨み、悲しみや絶望が込められていて。その声はとても恐ろしいのに、マナは苦しいほど切ない気持ちになった。


「ああ、そうだよね。君が怒るのは当然だよ。不幸を願ったのは人間たちで、その代表が僕だというのに、今君は人間の幸せのために消されようとしている。君は頑張っただけなのにね。叶えて欲しいと言われた願いを、叶えるために」


 《神様》の無数の手は絶えずこちらに向かって伸びてくる。グリュックの白い翼が盾となってみんなを守っていたが、このままではどうすることもできなかった。


「ごめんね、《神様》。どうしたら君の怒りを、憎しみを、悲しみを癒すことができるの? 君がこんなに醜い姿になってしまったのは、僕のせいだ。だから、出来ることなら、君を救いたい……!」

「知りたいですか?」


 その時、背後から聞き覚えのある台詞が飛んできて、マナは振り返る。そこには、ずっと事の成り行きを黙って見つめていたダンの姿があった。


「教えてあげましょう。《神様》は《他人の不幸を願った人々の願いそのもの》。

 けれども、そもそもそれが人々の本当の願いであるはずはないのです。

 人は自分が不幸の淵に沈んでいると、他人の幸せを羨み妬むようになる。だから、幸せな人々を不幸に引きずり込んでしまえば、心が慰められたように感じるんですよ。自分が少しだけ幸福に近づいたように錯覚するのです。

 ね、もう分かるでしょう、《神様》を創ったおぞましい願いの正体がなんだったのか」


 ダンの言葉に、それぞれがこれまでの悲劇を思い返す。人間はすぐに本当の願いを見失う生き物だ。願い続けるうちに、いつの間にか願いは別の何かにすり替わってしまうのに、そんなことも気づけないくらい、必死に願ってしまうから。


「君は、幸せになりたかっただけだったんだね」


 マナがそう呟いた瞬間、彼らを守っていたグリュックの翼が一層強く輝いた。同時に、ダンが右手に抱える分厚い本も輝き始める。


「さあ、願って。この悲劇を生んだのが貴方がた人間の願いなら、終わらせるのもまた人間の願いのみ。ほら、御覧なさい」


 ダンの本は宙に浮かび、勝手にあるページを開く。そこには何も書かれていなかったが、そこから蜃気楼のような映像が浮かび上がってきた。


 映し出されたのは、めちゃくちゃになった街で、傷を負った人々を看病して回る少年少女と幼い子供達の姿。


「キティ! ラン! ブラッディ!」


 ベルが驚いて彼らを呼ぶ。その映像は、この世界の外、現実世界の今の様子を映していたのだ。必死にけが人を治療して回る彼らの姿を見て、逃げ惑っていた人々も徐々に看病を手伝い始める。たくさんの人々が、見ず知らずの誰かを助けるために奔走していた。


「これは……!」


 その時、とんでもないものが映し出されて、ニックは信じられないといった様子で思わず呟いた。


「スラムの人々が……!」


 壊れた城壁を越えて、スラムから少しずつ、人々が王都へ足を踏み入れていた。彼らは目の前に広がる王都の惨状に絶句しながら、恐る恐る先へと進んでいく。


 そんな彼らに気づいた王都の人々は、彼らを追い返したりはしなかった。ただ、けが人の看病や搬送の手伝いを頼み、了承されると笑顔で礼を言う。


 スラムの人々の中には、国王へ長年の恨みを訴えようと一直線に城へ向かっていく者もいたが、王都の人々に混じって人々を救う手伝いを始めた者もいた。


「ああ、そうか。もう、城壁はなくなったんだ。だから、人の心にある壁も、なくせるかもしれないんだな」


 ベルは歓喜に打ち震えながら、涙に濡れる瞳でその様子を見つめていた。彼は王都とスラムが再び一つになれるかもしれない、そんな希望を抱く。


「すごいなあ! もう、僕のなんでもすり抜けられる力はいらないんだ! そんなものがなくたって、もう誰もが王都に行ける。自分の未来を変えられるんだ!」


 マナも感動のあまりボロボロ涙を零しながら叫んだ。少なくとも、もう二度と自分と姉の身に起きた悲劇は起こらないのだ。それはまるで、奇跡のようなことだった。


「さあ、願って。《神様》に希望を見せてあげて。まだ、絶望しなくていいんだって、教えてあげて」


 グリュックが優しく微笑む。ベルとニックは顔を見合わせると、まだ感激したままのマナの肩に手を置いた。


「マナ。貴方が、終わらせてください」

「この世界は、願ったように姿を変えてくれる。私の湖を染めてしまった貴方なら、もう一度同じことができるだろう。みんなの願いを、貴方が叶えて」


 マナは、この悲劇を招いた自分の歪んだ願いを思い出す。本当は愛して欲しかっただけだったのに、そばにいて欲しかっただけだったのに、必要とされたかっただけだったのに、随分遠回りをしてしまった。けれど、今世界は自分を必要としている。自分が始めたことだから、自分が終わらせなくては。


「僕は願うよ」


 グリュックの翼の盾から出て、マナはゆっくりと《神様》に向かって歩み寄る。襲いくるおぞましい手をすれすれのところで避けるけれど、鋭い爪に引き裂かれて数えきれないほどの傷を負った。それでも、マナは立ち止まらずに進む。


「君の——君たちの、その憎しみや悲しみが、癒える日が来ることを」


 彼は右手を高く掲げた。すると、星一つなかった真っ暗な夜空に、一筋の光が煌めいた。後から後から、輝く星が流れていく。やがてそれは流星群となって、真っ暗だった空を美しく輝かせた。それはただの星ではなく、幸せを願う人々の希望そのものだった。


「時には本当の願いを見失って、誰かの不幸を願ってしまうこともある」


 《神様》の爪が、マナの長い、真っ赤な髪を切り落とす。彼が大切にしていた、彼が姉に捨てられてから一度も切らなかった髪。姉に捨てられてからどれほどの時が経ったのか忘れないために伸ばしていた髪を切り落とされて、マナはやっと自分の中の憎しみを完全に捨てられた気がした。


「それでも、やり直せる。何もかもめちゃくちゃにすることはないんだ。希望はちゃんと、ここにある」


 《神様》の真正面に立って、マナは笑った。感激の涙を零しながら、心から幸せそうに。空からひときわ強い輝きを放つ星が、《神様》に向かって流れ落ちる。


「だからさよなら、《神様》。僕の願いを叶えようとしてくれて、ありがとう。どうかこれからも、本当の願いを見失ってばかりの人間を、見守ってね」


 その瞬間、流れ星が《神様》に衝突して。夜に包まれた世界が、昼のように明るい光で満たされた。あまりの眩さに、誰もが目を閉じる。


「————————————————————!」


 光の中で、《神様》のおぞましい叫び声が響き渡った。それはあまりに恐ろしく、それでいて悲痛な声で。その場にいた誰もが、涙をこぼさずにはいられなかった。


「ごめんね、《神様》。ごめんね……!」


 そして、光が消え去った後、《神様》のいたマナの目の前には、真っ赤に輝く小さな光の球だけが残されていたのだった。

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