第36話 君がそばにいるだけで
「全部、全部キミのためなんだよ。どうしてキミは分かってくれないの?」
《神様》は、ベルに向かって悲しげに問いかけた。頭上に広がる星一つない夜空を指差して、彼は必死に訴える。
「ボク——じゃない、俺と再会したときにはもう、この空は真っ暗だったんだろう。王都を追われたあの日からずっと、ベルは絶望してるんだ。世界に、未来に、人間に、眼に映るものすべてに。星一つない空がその証拠。そうだろう?」
「……そうだな」
どこまでも暗闇が広がる空、静寂に包まれた湖。それらはすべて、ベルの心そのものの象徴だった。どこまで行っても、何も現れない。孤独に支配された世界。
「きっと、この世界に太陽が昇る日は来ないよ。私はもう、信じることはできないから。この先どれだけの幸福を手に入れても、私に安らぎは訪れない。手に入れるということは、いつかなくすということだ。これからもきっと、私は失うことの恐怖に怯えて、光から目を背けるだろう」
そう語るベルの表情は、どこか穏やかだった。それでいい、というような彼の様子に、《神様》でありソルである少年は拳を握りしめる。
「だから、だからだよ! 俺が——ううん、ボクがベルから幸せを奪おうとするものは全部消してあげる。王都の人間たちはみんなベルの敵でしょう? ベルが王都に戻れたとしても、キミの家柄や財産を羨み妬んで、奪い取ろうとする奴らは腐るほど現れる。だから全部ぐちゃぐちゃに壊してしまえば、もうベルは絶望しなくていい。そうでしょう?」
《神様》の問いかけに、それでもベルはゆっくりと首を振るばかり。
「私は幸せを奪い取られて、一生癒えることのない傷を負った。こんな痛みは、他の誰にも味わってほしくはない。ソルが言うように、私の幸せのために誰かの幸せを奪ってしまえば、別の誰かが私と同じ思いをする。彼らはきっと自分からすべてを奪った私を憎み、いつか奪い返そうとするだろう。そして、その先にはなにがあると思う?」
《神様》は悔しそうに唇を噛み締めながらおし黙る。その表情はとても人間じみていた。
「この終わらない悲しみの連鎖に、私は巻き込まれたくないんだよ」
「……でも!」
彼の赤い瞳が揺らぐ。その赤からはもう、あの禍々しい輝きは消えていた。
「それじゃ、キミの願いはどんどん踏み潰されていくでしょう!? 誰かの願いが叶うということは、誰かの願いは叶わなかったってことだ。他の願いを蹴散らして、最後まで強く願い続けた人間の願いだけが実現するのなら、ベルは一生願いを叶えられないことになるじゃない。他人なんかどうでもいいでしょう、彼らの痛みはキミの痛みじゃない。
ねえ、ボクに願ってよ、ベル。全部奪い取って、めちゃくちゃに壊して、幸せをちょうだいって。きっと叶えてみせるよ、誰もベルを傷つけない楽園を作るんだ!」
今にも泣きそうになりながら、《神様》はベルにすがりつく。ベルはそんな彼を強く抱きしめた。
「ソル」
「え……?」
突然感じるベルの温かい体温に、《神様》は戸惑う。ベルは紫色の瞳から、ポロポロ涙をこぼしていた。
「お前の願いはなんだったんだ?」
「俺の……願い?」
「ソルの願いは、王都の人を不幸にすることか?」
「そう、そうだよ、だってそうすれば」
「私を幸せにできるから?」
ドクン、とソルの心臓が悲鳴を上げる。《神様》と融合していた肉体が拒絶反応を起こしたかのように、ソルは全身を貫く痛みに崩れ落ちた。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
いつの間にかすり替わっていた願いに気が付いたソルの拒絶を止めるために、《神様》はそれ以上ベルの言葉を聞くまいと叫ぶ。けれど、ソルにとってベルは神なんかよりもっとずっと大切なものだったから。どんなに小さな声でも、ベルの声だけはソルに届くのだ。
「お前の願いは、私を幸せにすること、だろう?」
その瞬間、耳が痛くなるほどの完全な静寂が訪れて。
「————————————————————!」
まるで人間の怨嗟の声を集めたような《神様》のおぞましい叫びが響き渡る。《神様》とソルは同じ願いを抱くことでひとつになっていた。けれど、《他人の不幸を願った人々の願いそのもの》であった《神様》と《ベルの幸せを願う》ソルは同じではない。完全な融合は、もう二度と果たされることはないのだ。それを知った《神様》の怒りが奔流となってベルを襲う。けれど、ベルは全くひるまなかった。
「ソル!」
ソルが顔を上げる。涙に濡れたその瞳が、まっすぐにベルを見つめまっすぐにベルを見つめて。ベルは微笑んだ。心から幸せそうに、ソルが今まで見たこともないような笑顔で。
「私は、お前がそばにいるだけで幸せだよ」
ずっと一緒に生きてきたソルには、分かってしまった。ベルのその言葉に、嘘も偽りもごまかしも、ありはしないということが。
「なにそれ」
ソルは両腕で必死に目をこする。涙を拭って、少しぎこちなく、けれどソルらしい、太陽みたいな笑顔を浮かべた。
「ベルのバカ」
その瞬間、ソルの体からまばゆい光が放たれる。真っ白な光は、ソルの中から真っ赤な光を追い出すように輝いた。ソルから出てきた赤い光は徐々に集まり、おぞましい怪物の形を取っていく。それはかつてベルが西地区で追いかけられた、あの化け物そのものだった。
無数の人間の手足が生えた、真っ黒な塊。そこに浮かんでは消えるいくつもの顔は、憎しみと恨みで歪んだおぞましい表情を浮かべている。その真っ赤な瞳は世界のすべてを憎むかのように鋭くあたりを睨みつけていた。
「ソル!」
ベルは意識を失い倒れたソルに駆け寄る。しゃがみこんでソルを抱きしめたベルに、ものすごい勢いで化け物の無数の手が伸びてきた。ベルは逃げることもできず、ソルをかばうようにして目を閉じる。しかし、覚悟した衝撃はいつまでたっても訪れなかった。
「大丈夫だよ、ベル」
希望と思いやりに満ちた美しい声に顔を上げれば、そこには真っ白な翼で化け物の攻撃からベル達を守るグリュックの姿があった。そして、湖に沈んだはずのニックと王様の姿も。
「君、ベルっていうのかな。ごめんね、僕の願いに巻き込んでしまって」
緋色の王様がベルを振り返って申し訳なさそうに声をかける。その様子はどこか落ち着いていて、それでいて力強かった。彼は悲しそうに《神様》のおぞましい姿を見つめると、慰めるような、静かで優しい声でまっすぐに告げた。
「もう、終わりにしよう。《神様》」
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