第35話 神様からの贈り物
「私の名前、アネラっていうのは、天使って意味なんだって。父さんと母さんは貴方が生まれてすぐにいなくなってしまったけど、そんな話をしてくれたことは覚えてるの」
思い出の中の姉さんは、赤い髪をなびかせて誇らしげに言う。顔も知らない、いたかどうかすら僕には分からない両親の付けてくれた名前について話す時、姉さんはいつも幸せそうだった。
「今は側にいてくれないけれど、自分の名前に込められた愛を思い出すたび、二人を近くに感じる。だから、会えなくても寂しくないの」
それを聞いて、僕は両親のことを考えてみる。どんな顔だったのかな。優しい人たちだった? きっと、姉さんと僕みたいに、赤い髪と目だったんだろうな。
「ねえさんはいいなあ」
幼かったあの頃の僕は、気づけばそう呟いていた。
「ぼくは、とうさんとかあさんにはあいしてもらえなかったもん」
僕は彼らの顔を見たことがなければ、声だって聞いたことはない。そう思うと、なんだかとても寂しい気持ちになった。そんな僕を、姉さんはふわりと抱きしめる。
「そんなことない! 貴方の名前にだって、ちゃんと愛が込められてるんだよ」
そう言って、姉さんは真っ青な空を仰ぎ見た。まるで、そこに両親がいるとでもいうような眼差しで。
「二人は言ってた。貴方の名前は、神様からの贈り物って意味だって。貴方が生まれたとき、神様から宝物を授かったんだって大喜びしてたのよ。
私も、その時のことを覚えてる。貴方が生まれたことは、私にとっても一番幸せな出来事だった」
思い出を見つめながら、現在の僕は姉さんの言葉に首を振る。
僕が神様から授けられた宝物だったのなら、なぜ姉さんは僕を捨てたの? 思い出の中の言葉は全部、嘘だったんでしょう?
だったら、聞かなかったことにしよう。名前なんか思い出せなくていい。忘れたままでいれば、心の傷跡があったことさえ分からなくなる。
思い出に背を向けて、もう一度暗闇に沈もうとした僕の手を、誰かが掴んで止めた。そこには、すっかり大人になった僕の大事なニックがいて。
「最後まで思い出して。真実を怖がるのは、もうやめましょう。最初から、貴方が探していたものはここにあったんです。だから、ちゃんと向き合って」
「嫌だ」
僕よりニックの方がずっと子供だったはずなのに、今はまるで僕の方が子供みたいだ。まるで駄々っ子みたいに嫌がる僕に、ニックは優しく言い聞かせる。
「俺が側にいますから」
なにそれ。姉さんによく似た顔で、ニックは笑う。彼は姉さんみたいに僕を抱いて、僕がずっと姉さんに言って欲しかった言葉を告げた。だから、それ以上嫌とは言えなくて。
「……分かったよ」
僕はもう一度、遠い思い出の中の僕と姉さんの方を向く。小さな僕の目を真っ直ぐに見て、姉さんは願いを口にした。
「どうかお願い。この先どんなことがあっても、決して忘れないで。貴方の名前に込められた愛は、絶対に消えて無くなったりしない。無かったことにはならないの」
忘れていた姉さんの言葉が、僕の心を真っ直ぐに射抜く。震える僕の手を、ニックが強く握りしめた。姉さんは、ちゃんと僕に伝えていた。僕がずっと知りたかった答えを。
「だから、いつか私たちが一緒にいられなくなっても。貴方は愛されているということを、忘れないで。どんなことがあっても、貴方を愛しているわ」
思い出の中の姉さんが満面の笑みを浮かべて僕の名前を呼ぶ。まるで、その名を口にするのが幸せで仕方がないというように。そして、僕の側で手を握っていてくれたニックも、同じように僕を呼ぶ。まるで、その名が愛おしくて仕方がないというように。
「「マナ!」」
そう、そうだった。マナ。神様の贈り物。僕が忘れたかった、姉さんの愛情の全てが詰まった名前。
思い出した瞬間、真っ白い光が再び僕らを包み込む。思い出が遠ざかっていき、代わりに今という時間が近づいて来るのを感じた。
「僕はずっと、姉さんに愛されていなかったんだと思い込んでた」
僕はニックに告白する。これまでの僕がなにをしてきたのか。
「愛されていなかったとしか思えなかった。でも、そんな現実を認めたくなかった。他の誰かが幸せそうにしているのを見ると、苦しくて仕方なくて。全部めちゃくちゃになっちゃえばいいって思った。
ほら、子供ってさ、さっきまでご機嫌で積み木のお城を作ってたのに、いきなりめちゃくちゃに壊したりすることがあるでしょう? あんな感じだったんだと思う。
僕は思い通りにならない現実に耐えられなくて、癇癪を起こして八つ当たりした。子供みたいに」
でももう、それも終わり。
「僕もそろそろ、大人にならなくちゃ、ね」
ニックは僕の言葉に、呆れたと言って笑った。
「30歳もとっくに過ぎてるくせに、今更大人になるなんて。遅すぎますよ」
「ダメかな。もう無理?」
「いいえ。ぜひ、立派な大人になってください」
「もしかしてバカにしてる?」
「してません。多分ね」
「してるじゃん!」
僕とニックは顔を見合わせて、同時に笑い声をあげる。こうやって彼と笑い合うのは随分久しぶりな気がした。
「それで、貴方の本当の願いはなんだったんですか?」
光が消える間際、ニックが静かに問いかけた。僕はずっと見失っていたそれがなんだったか、もう思い出していたから、迷うことなく答えた。
「一人でいたくない。誰かに、側にいてほしい。出来れば姉さんがいいけど、僕を愛してくれる人なら姉さんじゃなくても良かったんだ」
それを聞いて、ニックはなんだ、と呟く。
「そんな願いなら、とっくの昔に叶ってるじゃないですか。俺も、子供たちも、みんな貴方を愛して、側にいた」
「君の言う通りだ。僕の願いはちゃんと叶ってた。それなのに、姉さんに捨てられた現実を見ないために逃げ続けるうちに、そんなことも分からなくなっちゃったんだ」
僕が逃げるためだけに、踏み潰されてきた命を思うと頭がおかしくなりそうだけど。それでも、現実と向き合うしかない。逃げたってなんの意味もないことは、もうはっきり分かっているのだから。
「だから、《神様》を止めなくちゃ。僕の願いのために犠牲になる命がこれ以上増えないように」
僕の言葉を合図に、僕らを包んでいた光が弾け飛ぶ。元どおり、赤い湖に沈んでいた僕たちを、誰かが引っ張り上げようとしていた。それは僕が姉さんとの過去を思い出す直前、光の向こうに見えたあの天使のような青年だった。
「君の願いが叶うよう、力を貸すよ」
彼の声は本当に神の使いかと思うほどに美しい。僕は直感的に、彼が《神様》と反対の存在なのだと理解した。
「お願い。僕の願いを叶えて!」
彼は力強く頷いて。そして僕たちはようやく、水面にたどり着く。僕の現実逃避が生み出してしまった《神様》を止めるために戦う覚悟は、もう出来ていた。
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