第11話 十年前の惨劇

 父上と母上の結婚記念日には、毎年盛大なパーティーが行われたものだった。客人たちが帰った後も一族みんなで夜遅くまで楽しく歓談するのがお約束。私もその大人の集いに参加したかったけれど、当然許されず早々に部屋に戻された。


 最初は拗ねてなんとか夜更かししようとしていたが、何せ当時の私は七歳だ。睡魔には抗えるわけもなく、いつのまにか眠ってしまった。


 目が覚めたのは、誰かが乱暴に部屋の扉を開ける音がしたからだ。暗闇の中でうっすらと目を開くと、そこにはいつも身の回りの世話をしてくれているメイド長の姿があった。寝ぼけた頭でぼんやりと、何故彼女が夜中に部屋を訪ねてきたのだろうと疑問に思う。彼女がゆっくりと両手を振り上げたとき、その手に握られた血塗られた刃の存在に気づいた。


 息を飲む間もなく、凶刃が振り下ろされる。眠気なんかとっくに吹き飛んでいたのに、何故か全てがスローモーションのように感じた。死を覚悟しうつむいたその時、メイド長の怒りの叫びが聞こえて慌てて顔を上げる。


「ベルモンド!」


 そこにいたのは真っ赤な血に染まった母上だった。美しい黒檀を思わせる長い髪は無残に汚され、息も絶え絶えの姿で、彼女は必死に十年以上もこの家に仕えてくれていたはずのメイド長の両手を抑えていた。


「母上からの命令です! 必ず生き延びなさい、生きて、生きて、生きて——!」


 その瞬間、目の前が赤で埋め尽くされた。はっきりしない視界の中、崩れ落ちる母上の姿を見る。何もかもがあまりに赤いものだから、最低の悪夢にしか思えなかった。これは本当に、現実なのか?


「十年以上も待ったのよ? 一人だって逃しはしない。小さいのにかわいそうだけど、恨むなら貴族に生まれた自分を恨んでちょうだいね?」


 ずっと優しい眼差しで見守ってくれていたはずのメイド長が、歪んだ笑みを浮かべて告げる。不思議とそれは、何かが終わった合図のように聞こえた。


 カチリ、と頭の中でねじ巻きが回った音がした気がして。


 考えるより先に、体が動き出していた。くるまっていた毛布を彼女に覆いかぶさるように力の限り投げつける。


「ギャッ!?」


 彼女にとってそれは予想外だったようで、避けることもできず耳障りな叫び声を上げて必死に毛布をどけようとする。その隙に全速力で部屋を抜け出した。一瞬、母上のことが頭をよぎったけれど、頭の中で何度も反響する母上の言葉が私を振り向かせることなく進ませた。


 助けを求めて、大人たちの集っているはずの大広間に飛び込む。一歩足を踏み入れた瞬間に、足元でべちゃりという音がした。そこには真っ赤な海が広がっていた。それがなんなのかを理解するより早く、くるりと方向転換して屋敷の正面の入り口へと走った。


 大きくて立派な出入り口の扉が見えてきて、やっと外に出られると思ったその時だ。こちらから見えないように隠れていたのか、先ほどまではいなかったはずの見知らぬ男たちが何人も扉の前に立ちふさがった。彼らは一人残らず全身血で濡れていた。気づけば、背後にも左右にも数人の男たちが刃を構えて立っている。


 こんな惨劇をあのメイド長一人で起こせるはずがなかったのだ。彼らは彼女の共謀者か雇われの殺し屋か。いずれにしても、もう生き残る道など残されてはいないということだけは幼い頭でもはっきりと分かった。


「うそだ」


 囲まれて、逃げることを諦めてその場にへたりこむ。現実を受け入れられなくて小さな声で呟いた。ここで死にたくなんかなかった。どうにもならないとしても、それを認めたくはなかった。この現実を否定したかったのだ。


 母上は死んでない。父上も死んでない。これは私の見た最低な悪夢で、目が覚めたらきっと二人は優しく微笑んでくれて——。それが現実じゃないなんて、認めない。


「こんなのはうそだ!」


 その瞬間、私の体からまばゆい光が放たれた。それは最低な現実の全てを飲み込んで。次に気づいた時、私は生まれ育ったあの屋敷とは全く違う場所にいた。



※※※



 月も星も見えない真っ暗な空の下、見渡す限り何もない。あの殺人者たちもどこにも見当たらなかった。屋敷の床にへたりこんでいたはずだったのに、何故か果てのない湖の水面の上に沈むことなく座り込んでいた。


「ここは……?」

「君のためだけの世界だよ」


 突然背後からそんな言葉を投げかけられて、驚いて振り向く。そこには、見たこともないほど美しい金髪の男が立っていた。その男はどんな人間でさえも虜にしてしまいそうな、魅力的で優しい笑顔を浮かべている。


「ぼくのためだけの?」

「そう。ここは君が願ったから生まれた世界だ。君の願いは、《現実から逃げること》でしょう? ここにいれば永遠に安全だよ。誰もいないし何も起こらない。傷つくこともない。完璧な現実逃避の完成だ」


 彼の声は思いやりに満ちていたけれど、どこか悲しげにも聞こえた。


「今はとにかく眠りなさい。その小さな体に抱えるにはあまりに重すぎるものを、君は背負っていかねばならないのだから」


 ぽろり、とその瞳から涙がこぼれ落ちる。それを見た時、私は自分がまだ泣いていないことに気づいた。そしてきっと、これからも泣けないだろうと。それが分かっていて、彼は泣いてくれたのだとなぜかはっきりと分かった。


 果てのない湖は、流されることのない私の涙。月も星もない空は、全てを失った私の心。


「ねえ、おしえてよ」


 なんだかとても眠いけど、これだけは確認しなくてはいけなかった。水面にゆっくりと体を横たえながら、閉じようとする瞼を必死に開いて金髪の男に問いかける。


「ちちうえには、ははうえには、もうあえないの?」


 彼は答えの代わりに私を強く抱きしめた。その体が辛そうに震えるのを感じて、言葉にしなくともその答えは分かってしまった。温かい彼の体温が、私を眠りの底へと誘う。今度見る夢はあんな悪夢でなければいいな、と願いながら、私は眠りについた。

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