第10話 まるで幼い頃のように

 窓辺にうずくまったまま眠ってしまった王様を寝室に運んだニックは、その幸せそうな寝顔を見つめてため息をついた。ここ最近、王様は何度もニックに縋り付いていなくなるなと懇願する。おそらく新しい子供を見つけられなくなったことと関係があるのだろう。


 スラムから一人も子供がいなくなったわけではないが、連れてくる子供は純粋でなくてはならない。傷つき汚れて、願うことをやめた子供を集めてきても何の意味もないのだ。


「多分、あいつを連れて来ればいいんだろうな」


 憂鬱な気分で一人呟く。ある少年のまっすぐな紫色の瞳を思い浮かべて、記憶の中の濁りない眼差しに貫かれた彼は首を振った。


「んなことできるわけねえよな……」


 こんな地獄のような場所に堕とされてもなお、誇りを抱き他人を思いやる心を失わないままのあの少年は、ニックにとって特別な存在だった。


 それはまるで、叶わなかった少年時代の夢のよう。とっくに諦めているのに、捨てられない願いの先をあの少年に見ている気がして。自分の手で壊すことなんて出来るはずもなかった。


「分からないことが多すぎる」


 スラム一の情報屋だというのに、今の自分には情報が足りなかった。ここ最近は教会から子供を逃がしたり、王都から来た子供たちを助けたりするのに精神力を使いすぎて、ネズミたちの目からスラムを見ることが出来ない時間が多すぎた。そこで彼はあの日死んだ子供のことを思い出す。


「俺はきっと、間違ったんだろうな」


 あの子供は最期の最期、その思いをあの少年に託したらしい。そうなるようにあの子を彼の縄張りに連れて行ってしまったのはニック自身だった。良かれと思ってやったことだったが、まさか彼を緋色の王様に近づけるきっかけになってしまうとは予想もしていなかった。


 本当なら、あの子のことも忘れるはずだった。記憶を消してしまえば今まで通り、最初からあの子はいなかったことになる。ところが、王様はなぜかあの子の記憶を消して来れとは言わなかったし、ニックもあの子を忘れたいとは思えなかった。


 王様がその記憶を消させなかった理由はなんとなく分かる。あれは見せしめのようなものだ。次に自分以外の人間を特別扱いしたら、その相手も同じ目に遭わせるという意思表示。


 じゃあ、自分が忘れたくなかったわけは? 自分のことだというのに、ニックはその理由が分からなかった。


 今まで大人になった子供たちがどこに消えたのかなどすっかり忘れていたのだが、あの出来事以来ニックは消したはずの記憶の断片を夢に見る。消さなかったあの子の記憶が、消した他の子供たちの記憶を呼び覚ましているようだった。


 えくぼが可愛らしかったあの子も、歌が上手だったあの子も、走るのが速かったあの子も、みんなあの地下室から出てこなかった。直接彼らの最期を見たわけじゃない。でも、何が起きたのかはなんとなく想像がついた。《あれ》のせいだ。


 実のところ、ニックは《あれ》がなんなのか理解していなかった。緋色の王様は《神様》だというが、あんなものが神だとはあまり思いたくない。王様の願いを叶えるためにあれを育てた先に何が起こるのか想像もつかないが、良いことなどではないだろう。今まであまり考えたくなくて知ろうともしなかったが、《あれ》がスラムを這いずり回っている今、このままではあの少年たちが危険な目に遭うかもしれない。


「とりあえず、王様に聞いてみるか」


 眠る王様を見つめてニックは呟く。珍しく幸せそうな寝顔を浮かべる王様を見ているうちに、彼もベッドの上の王様に寄りかかって眠ってしまったのだった。



※※※



「あのさ、ベル。一つ聞いていい?」


 緋色の王様についての話し合いが膠着状態に陥ったところで、ブラッディが切り出した。


「私に答えられることならなんでも」

「ここではネズミに追いかけ回されたり、やばい生き物に遭遇することって普通のこと?」


 その問いかけに、ベルはポカンとした。その表情からは今までのこちらを警戒する様子は消え失せていて、ランは少し安心する。


「あの数のネズミに追いかけ回されることなんか普通はあり得ないぞ。それにやばい生き物ってなんのことだ? お前たちはスラムをジャングルかなにかと勘違いしてないか」


 ベルは呆れたように答えた。一体なんの目的でここに来たのか、自分たちを連れ戻すためだけにそんな危険を冒すなどということが本当にあり得るのか。疑っていた自分が馬鹿らしくなるくらい彼らは無知だということが分かって、ベルはそれ以上疑うことをやめた。やばい生き物についてそれ以上追求することもなく、ベルは二人に手招きする。


「お前たちが昔と変わらない愉快な仲間たちだということはよく分かった。ずっと中庭で立ち話もなんだし、まあ入ってくれ」


 その物言いがこの状況に不釣り合いで、ブラッディとランは顔を見合わせて笑った。


「なんか、お友達のお家に遊びに来たみたいな感じね。楽しくなってきたわ」

「っていうか中に入っても結局屋根が抜け落ちてるからほとんど中庭と変わらなくない?」

「それを突っ込まれると痛いところだ。壁があるだけマシだから我慢してくれ。温室育ちのプリンセスとおぼっちゃまにはさぞかし過ごしにくいだろうがね」

「あら、こう見えて私結構アクティブなのよ! 魔法学校のクラスメイトたちと一緒に森でキャンプに行ったりしたことは何度もあるわ。私よりブラッディの方が耐えられないんじゃない?」

「馬鹿にしないでよね! 野宿は嫌いだけど平気だよ。少なくとも君に耐えられて僕に耐えられないものなんかないね」

「全く、相変わらず貴方は失礼ね!」

「君たちはよくもまあ飽きずに喧嘩ばかりできるものだな」


 どうでもいいことをおしゃべりしながらボロボロの屋敷に向かう。まるで十年前に戻ったようで、気づけば三人とも笑いが溢れて止まらなくなっていた。ランは望んでいた再会の形が少し遅れて実現したことに心底喜ぶ。それからふと我に返って、寂しそうに呟いた。


「ベルが受け入れてくれて安心したわ。あとは、ソルが私たちともう少しでもいいから向き合ってくれればいいのだけど」


 もう一人の幼馴染の先ほどの態度を思い出して、三人は揃ってため息をつく。


「ねえ、この十年で貴方たちに何があったのか、話してくれないかしら?」


 ランの言葉にベルは少しためらう様子を見せたが、ランのまっすぐな瞳に心を動かされて頷いた。


「あまり楽しい話じゃないぞ。とりあえず屋敷の奥へ行こう」


 そして三人はベルの案内で屋敷の奥へと進んでいった。このとき、ブラッディの口にした《やばい生き物》については誰の頭からも消えていた。その話をもっと真剣にしておくべきだったと後々彼らは後悔することになるのだが、そんなことはこのときの三人には知る由もなかったのだった。

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