第3章 王様の願い

第19話 悪魔が生まれた日

 どうしてだかは分からないが。俺はどうやら死ぬらしい。


 スラムの路地裏に仰向けに転がって、どんよりと曇った空を見つめながら、もう指一本動かせやしないことに絶望した。どうしてこんなことになったんだ? 干からびたパン一つを手に入れるために飲めと言われたあの真っ白な粉のせい? あれのどこにそんな凶悪な力があったのか。


 何もかもが分からなかった。思えば分からない事ばかりの人生だったのだ。物心ついたときには既に親というものはいなくなっていて。弟と妹を食わせてやるために頑張ろうとしたけれど、文字は読めないし計算の仕方も分からない。できることといえば力仕事くらいだったが、報酬が働きに見合っているかどうかさえよく分からなかった。


 ある日、弟が熱を出した。異常なくらいその体が熱くて、苦しい苦しいと泣く姿になにかよくないことが起きていることは分かったけれど。どうすればいいのかなんて分からないまま、結局弟は死んだ。


 そのとき、妹だけはなんとしても守らなきゃ、と誓ったのに。俺は今、妹のいない路地裏で一人死にかけている。妹は帰ってこない俺を一生待ち続けるんだろうか。俺がいなくなったらあの子はどうやって生きていくんだ?


 今までずっと、気づきもしなかったけれど。俺はあまりに無知だったと思い知った。俺がもっと色々なことを知っていれば、弟を治してあげる方法が分かったかもしれない。ちゃんと働いて、妹を守ってあげられたかも。もう、全てが遅いけれど。


《知りたいですか?》


 突然、頭の中にそんな声が響いてきた。誰かいるのか、とかろうじて動く眼球をくるくる回してあたりを伺うけれど、声の主は見当たらない。


《貴方は自分の無知を後悔している。知ってさえいれば、違う未来があったはずだと感じている。違いますか?》


 それはまさに、俺の心を支配していた思いだった。頷こうとしたけれど、もう頭が動かない。


 その時、俺は胸元に乗っている謎の生き物の存在に気が付いた。灰色の毛玉のような、見たこともない生き物。もしかして、俺の頭の中に語りかけているのはこいつか? 俺の心の声に応えるように、その毛玉はキューキューと可愛らしい声で鳴いた。


《貴方は死にます。その未来は変えられません。けれど、貴方の願いは叶えられます。知りたい、という願いは》


 現実に聞こえるキューキューという鳴き声とは対照的に、頭の中で聞こえるその声はどこか恐怖を覚えるような声だった。男のようにも女のようにも、若者のようにも老人のようにも聞こえる。昔、腹の足しにもならないありがたいお話をして回る頭のおかしい神父が言っていたことを思い出した。天使と悪魔の話。


 じゃあ、今俺に話しかけているこいつは悪魔なのか?


 すると、毛玉は怒ったようにキューキュー鳴いて俺の胸の上をぴょんぴょん飛び跳ねた。どうやら違ったらしい。


《私は人の願いそのものです。。決して悪魔などではありません。私は人々を救うものです。ねえ、私に力を貸してくれませんか》


 死にかけの俺に何ができるっていうんだ? それに俺は何も知らないのに。


《貴方の身体を私にください。貴方に、代表者になってほしいのです。知りたい、という人々の願いの集合、その代表者に》


 身体をやる? そうしたら、俺はどうなっちまうんだ? 消えてなくなるのか。


《いいえ。貴方という人格は消えません。貴方という人格に、私という願いの塊が混ざり合って、別の何かにはなりますが。貴方は貴方のままです。知ることで妹を助けたいのなら、そうすることができます。貴方の妹以外の無知に苦しむ人々のことも救ってくれるのなら、問題ありません。どうしますか》


 妹を救える。俺みたいに、何も知らずに利用され傷つく人々を救える。それが本当なら、どれほど素晴らしいことだろう! どうせ、なにもしなくたって俺は死ぬ。死んだら妹は救えない。だったら、この選択が正しいかなんて分からなくても、可能性がある方を選びたい。


 いいぜ。俺の身体、お前にやるよ。


 灰色の毛玉が笑った気がして。次の瞬間、毛玉は俺の胸の中に飛び込んだ。頭の中で、たくさんの知識が渦巻く。俺がなんで死んだのか、弟にどうしてやればよかったのか、これから妹に何をしてやればいいのか、その知識があれば簡単に正解にたどり着けた。俺は間違ってなかったんだ。これで、妹を救える。


 なんとも言えない感覚と共に、俺の人格と毛玉の意識が融合していくのが分かった。毛玉は俺と一つになる間際、切実な声で一つだけ忠告した。


《どうか、願いを見失わないで。、それを忘れないで》


 忘れるはずないじゃないか。みんなを救うためだ。こんな大切なこと、どうして忘れられる? すると毛玉は安心したようで、俺と毛玉は完全に融合した。


 俺——いや、私はゆっくりと立ち上がる。今の私に俺という一人称はそぐわない。名前だって、以前と同じではいけないだろう。


「ぴったりの名前を探さなくてはねえ。何がいいでしょうか」


 スッと右手を宙に差し出せば、どこからともなく分厚い本が現れる。その本はひとりでに開き、パラパラとページをめくって、あるページを示した。


 そこには何も書いていなかったけれど、すぐにそこから何かが蜃気楼のように浮かび上がった。浮かんでは消え、浮かんでは消えるそれはこの世の天使と悪魔のリストだ。今の自分に名前を付けるとしたら、天使か悪魔、どちらかから名前をもらうのがふさわしいだろうと思ったのだ。


 数え切れないほどの名前を吟味して、ようやくぴったりのものを見つけた。たくさんの顔をもち、右手に本を手にした知識を司る悪魔。


「ダンタリオン」


 口にして、これだという確信を得る。これが新しい私。無限の知識を持ち、人々を救うもの。なんて素晴らしいのだろう!


「さあ、早く妹のところにいかなくてはね」


 早く彼女を救わなくては。はやる気持ちを抑えながら、優雅に歩き始める。頭の中で、彼女を救う方法を無限に考えながら。



※※※



 それはソルとキティが緋色の王様に出会う少し前。教会の王様の部屋で、ダンは王様にもったいぶった口調で告げた。


「やっと、わかりました」

「本当!? 早く、早く教えて!」


 それを聞いて、王様の表情が輝く。待ち切れないといった様子でダンを催促した。


「まあまあ焦らずに。《神様》を完全体にするには、願いを食わせるだけでは足りないらしいのです。もう、《神様》は願いを十分蓄えました。あと、必要なのは代表者です」

「だいひょうしゃ?」


 王様はその言葉がピンとこなかったらしく、首をかしげる。


「ええ。簡単に言うと、《神様》には人間の体が必要なんです。《神様》が叶えようとする願いと同じ願いを持ち、《神様》と完全に融合できる人格の持ち主でなければなりませんが」

「誰でもいいってわけじゃないんだね。そんな人間、見つかるかなあ」


 肩を落とす王様に、ダンはその反応を予期していたという顔をして、安心させるようにその肩を叩いた。


「そこなんですが、今西地区に数人子供が迷い込んだようなのです。彼らの中に、もしかしたら適合者がいるかもしれません」

「そうなんだ!? 教えてくれてありがとう、ダン! 僕、今からその子たち探してくるよ!」

「そうするのが良いでしょう。お気をつけていってらっしゃい」

「いってきまーす!」


 軽やかな足音を立てながら、王様が部屋を飛び出していく。その姿を見つめながら、ダンは楽しそうに笑っていた。


「私は知らなければならないんです。この世界で起こる全ての悲劇を。だから、貴方が教えてくださいね、王様」


 その声を聞いたものは、ネズミ一匹たりともいなかった。

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